神奈川近代文学館企画の遠足コースは、東海道大磯宿
風が抜ける藤村書斎 |
出発は、JR大磯駅近くの島村藤村の終の棲家に
始まり、澤田美喜記念館、洋館木下邸(大磯迎賓館)
でランチ、吉田茂別荘 →三井家別荘城山荘跡地
城山公園内大磯郷土資料館をめぐりました。
それにしても個人の別荘に3億円の寄付とは、今の日本に欠か
司馬遼太郎「街道行く」は、日本人探しの旅ですが
75年前の敗戦当時の日本社会にあって戦争反対で
投獄されていた吉田茂氏が戦勝国を相手に舵取り
をした時代。解体された日本のオリガルヒ 財閥の一人
で戦中・戦後の外交官婦人だった澤田美喜氏の模索。
敗戦の混乱に翻弄される中で見失いたくない「日本の
誇り」「小さきものへのまなざし」「命の大切さ」
「希望を失わない強さ」。大人の遠足は、さながら
「街道をゆく」の取材旅行のようでした。
澤田美喜氏は、外交官婦人として戦勝国からの威圧を正面から受ける立場に
ありました。彼女の教養と知性をもってしても敗戦の受容や立ち直りは容易
なことではなかったと想像します。彼女が帰国の途中にキリスト教の
殉教26聖人・隠れキリシタンの存在を知り、遺物の収集に全力を注いだ
背景には、「敗戦に負けるものか」「理不尽な仕打ちにあっても人間として
の誇りを捨てなかった日本の人たちの存在と歴史を守りたい」という気持ち
があったはずです。
敗戦は、連合国軍兵士と弱い立場の日本女性の間に多くの子供たちを生みました。その子供たちへの蔑視や迫害は、想像にかたくありません。澤田美喜氏は、隠れキリシタンの遺物収集と同じくらい、混血児たちの養育(エリザベス・サンダースホームの設立)にこの大磯で力を尽くしています。遺物、混血児の命を守ることは、自分の生存と同等の意味をもっていたと思われます。彼女は焦土と化した東京ではなく一族の別荘地を買い戻しながら養育施設を次々とたてました。頭を下げ寄付を募る毎日だったと思います。彼女の思いに応えられた日本人がどれほどいたか疑問です。彼女への物心の支援の多くは外国の心ある人たちからのものでした。
再建された吉田茂別荘 |
食堂(ローズルーム) |
吉田茂氏の大磯邸は、焼失後5億円で再建、うち3億円
の寄付を集めて完成しました。連合国の要人、皇室、
政財界の重要人物が出入りされ食事が供され、
この景色を共有しながら日本の復興と高度成長の旗が
振られていたかと思うと「なんだかなあ」。
吉田茂氏 |
せない存在だったことが想像できました。75年後の日本社会の
ありようは、この景色や別荘で語られたであろう日本の未来とは
程遠く狭小にみえます。吉田茂氏のこの別荘内の居場所は、
4畳半の掘りごたつのある小部屋。脇にある一本の電話は、
政界、財界を縦横無尽につないでいたということです。
今そういうふるまいは、たとえだれであってもゆるされない
でしょうね。今は、一人の宰相より1億人の国民が主役の
はずの日本です。
広大な敷地の一角に「七賢人堂」があります。吉田茂氏は
岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝充、伊藤博文、
西園寺公望にならんで7人目の賢人と自らを加えました。
この七賢人は、この大磯に競って戦前に別荘を建て、リゾート
ライフを楽しんできました。大磯は、日本の為政者たちに富士山
がみえ風光明媚で社会から隔絶した魅力的で夢の見れる土地だったことが
よくわかります。
最後に訪れた郷土資料館には、古墳時代の横穴から町内会の祭りまでのこの土地の
人々の質素で堅実な生活が見られます。藤村は、この土地の左義長祭りを見てここを
終の棲家と決めました。吉田茂氏は、この別荘の窓から太平洋と富士山を見ながら
息を引き取りました。澤田美喜氏は、日本ではなくマヨルカ島で余生をおくりました。
大磯という土地の面白さはまだまだありそうです。私は、澤田美喜氏の洞察力を
感じさせる油絵と隠れキリシタン遺物、吉田茂氏の掘りごたつと窓からの四海波が
強く印象に残りました。澤田美喜氏の記念館がコースになかったらうっかり
日本近代史のおさらいで終わってしまうところでした。