2016年3月24日木曜日

おじいちゃんを探して

 新聞で鴎外記念館の「100年前の鴎外とその時代」を開催している事を知って千駄木まで出かけました。鴎外記念館は当時「観潮楼」といわれ高台にあった鴎外私邸の跡地にあります。私邸は取り壊され記念館として生まれ変わりましたから「観潮楼」の面影は館内の模型で知るしかありません。100年前に観潮楼から見えたはずの浅草寺も今は立ち並ぶマンションの合間から見えるスカイツリーに変わりました。これが観潮楼か??? と永井荷風の「日和下駄」という作品に鴎外の住居がその後の借家人の不始末で焼けてしまって寂しがっているシーンがありました。そうだった!私は「観潮楼」が見たかったわけではなく100年前の鴎外に関心があったのでした。
 大正4-5年の頃 鴎外は陸軍軍医総監を辞任しています。私はこの辞任の背景にあった「脚気問題」に興味がありました。ドイツの病理学勃興の時代に留学し医学を修めた鴎外は「脚気」の病原菌説にこだわります。陸軍の鴎外に対し海軍は食糧説で抵抗しました。結局日露戦争では鴎外は陸軍に対し銀シャリを固持し麦飯を兵に支給しませんでした。日露戦争の戦死者のうち1万人は脚気で亡くなったといわれています。鴎外は生涯この「脚気問題」にこだわり臨時脚気病調査会に出席し続けていることを今回の展示で知ることができました。昨年27年秋に同記念館で「医学者としての鴎外」の特別展があったのですがこちらは見損ねてしまいました。
森鴎外記念館からの大イチョウと玄関
私のおじいちゃんですが、「当時「医界時報」という業界誌の記者をしていた。」と父の自分史に書いてありました。「医界時報」は山谷徳治郎という医学ジャーナリストが主筆を務める週刊新聞でした。彼は果敢に当時陸軍軍医総監の鴎外に業界誌上で脚気問題の論陣を張りました。鴎外が相手にしたかどうか定かではありませんが。因果関係に重きを置く西洋医学に対し経験則からの警鐘を鳴らし続けたようです。その後主筆を田中氏に譲ります。
おじいちゃんの接点はこの田中氏で仲人として家族ぐるみのお付き合いがあったようです。しかしおじいちゃんはこの「医海時報」を退職します。父は「一徹なところがあったのだろう」と書いていますが父が生まれたのは大正6年、退職の理由は定かではありません。その後おじいちゃんは霊気療法の施術を勉強したようです。草鞋を履き帽子とカバンをもって全国行脚の旅にでる姿が父の記憶に残っていました。そして私の生まれる1年前の昭和27年に67歳で亡くなっています。霊気療法は当時の民間療法です。創始者は臼井甕男(1865-1922)でした。信望者には軍人・華族などがおり知る人ぞ知るの世界だったのでしょう。
本駒込 富士宮神社の桜 満開!
 おじいちゃんが脚気論争をまじかに感じ取り、「原因究明があっての根治療法」が大事か「経験に基づいての対処療法」で命を守るかのせめぎあいに疲れてゆく様子が目に浮かびます。きっと癒しの本質が何かを民間療法に求めたのでしょうね。現在脚気の原因がビタミンであることがわかっています。健康食品として麦・五穀米なども重宝されています。
 霊気療法のようなハンドパワーによるヒーリングも代替療法のひとつとしてその位置を確保しています。おじいちゃんが生きていたらなんて言うだろうと思いながら千駄木からおじいちゃんが住み父が遊んだ本駒込の富士宮神社を見て帰りました。



2016年3月13日日曜日

春の贅沢 修学院離宮


下離宮正門内
中離宮・上離宮を結ぶ松並木

中離宮 楽只軒

上離宮から浴龍池を臨む

     
上離宮 窮邃亭北側の滝 
浴龍池 千歳橋


 3方の窓が開き自然に抱かれる上離宮 窮邃亭 


浴龍池をぐるり 遠方に千歳橋

2016年3月8日火曜日

啓蟄 小松石

 3月になり母の命日にお墓参りにゆきました。お彼岸を前に広い墓地には梅が満開、河津桜、蘇芳、桃の花が咲いています。気の早い雪柳も花をつけ始めています。この墓地一帯は昔雑木林、東京を縦断する野川の上流に位置します。そのためか墓地にもゆとりがあり墓石より赤松やケヤキ、プラタナスなどの大きな木が目立ち、桜のシーズンはお墓参りだけでなく花見客でにぎわいます。私もこの自然が好きでよく出かけます。
この林の中を歩いていると深呼吸をしたくなります。足元でごそごそという音も聞こえてきそうな気がします。町では感じられない感覚です。それもそのはず3月6日は啓蟄。という季語があるように土中の虫たちが春に向けて動き出す時期になるからです。足元の目に見えないところで虫たちが生まれ成虫になり命を全うしようというエネルギーが五感に感じられます。春ちょっと前の雑木林は爆発前のエネルギーが充満していいですね。こういうところにお墓があり家族が引き寄せられるということを大事にしてゆきたいと思いました。
 さて本小松石、石が好きだった父は旅行先でよく石を拾ってきています。母は海外旅行の土産に父に死海の石(岩塩)を持ち帰えるくらい石にこだわりをもっていました。そういう両親が建てた墓なので、墓石に自然石を使っています。小さな墓地の真ん中でデンとおかれた緑色の自然石は、年を経るごとに存在感を増してきています。
話題にしたい石は、この緑の石のことではなく墓誌を刻んだ石のことです。これが小松石というもので、検索しましたら伊豆の真鶴で産出する堅牢な石ということがわかりました。かつては江戸城の石垣に用いられたともありました。江戸時代と40万~50万年前の箱根の噴火活動がぐっと身近になりました。箱根外輪山の噴火で噴出した溶岩が急速に固まってできた安山岩で小松原というところで多く産出しました。採れる地域が限定されていることと石を切り出すのではなく、産出された形を利用しなければならない堅牢さがあるため、希少価値があるといわれ鎌倉時代から城の石垣づくりに用いられました。江戸には海路で運ばれその港として栄えたのが真鶴になります。
 最初 墓誌の石の表面にシミが出てきているのかしら?と思っていましたが、来歴や価値をしればシミも宝物に見えます。石の良しあしは、いろいろな石に出合いその来歴・形などに関心がもててわかってくるものがあるでしょう。しばらくはお宝として大事にしてゆこうと思いました。とはいうものの自分の見る目なんて危ういものだなとお腹の中で笑ってしまいます。「直観は大事」としていても、評判や情報でいくらでも揺らいでしまいます。だからといって直観を信じないわけでもありません。直観も評判も何かを大事にしようという気持ちがなければ、何にもなりませんものねえ。希少価値のある墓石を大事するということを通して、亡き親たちが大事にしたルーツへの感謝の気持ちや自分たちが生きた証を残そうとする気持ちに気づかされました。人間関係や諸事に追われ自分が何を大事にしようとしているかを、見失いがちな今日この頃、墓参りでよい時間を過ごすことができました。

 

バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...