2014年8月23日土曜日

おじいちゃんの玉手箱

 おじいちゃんの夏休み   おおきなログハウスの窓辺で玉手箱の中で見せてくれたのは大気圏に飛びこんでくる宇宙線の姿でした。
  ドライアイスで思いっきりひやした周囲が黒い箱に謎の液体が注がれました。一片からLEDを
照らすと見えます!見えます!はかなく白い糸のような線が パット現れては消えてゆきます。私が今までみたものの中で姿の近いものというと 綿菓子の砂糖の繊維のようです。舐めるとパット溶ける。お爺ちゃんの薀蓄に?????? のファミリーですが おおおばさんが すかさずフォローに入りました。「放射線っていつもあびてるってわけね」
 

 遠い宇宙の彼方から発せられる宇宙線が身体を通過しているという不思議 目に見えるものを見えるようにする工夫に夏休みをかけているおじいちゃん 皆が覗いている液体の入った箱に
手を突っ込もうと狙っている孫一 そうはさせまいとしておじいちゃんの薀蓄もうわの空のお婆ちゃん かくしてログハウスの夜は更けるのでした。
 おりしもペルセウス座流星群が到来 すばる望遠鏡が宇宙の始まりとなった爆発のころにできた★からの光をとらえたという記事が新聞の片隅にのりました。昔の人たちは日が沈むと満天の★★を見て想像の羽根を羽ばたかせたことでしょう。今の私たちは何を手掛かりに想像力を育てたらよいのでしょうか おじいちゃんの玉手箱 来年は何をみせてくれるのかな

葡萄の木を枯らさないで・・

たくさんの実を掲げて大地に突き刺さる葡萄の木
古いほど捻じれ幹が割れている葡萄の木 
葡萄はおいしい食べ物だけでなく滋養の飲み物です。紀元前の昔から葡萄を栽培し生活の糧にしてきた国はイスラエルです。イスラエルの国の宗教ユダヤ教では葡萄の木は豊穣と平和の象徴です。ユダヤ教を背景としたキリスト教の教えを説く聖書ではこの葡萄の木や葡萄畑がたとえ話でよくでてきます。遠く戦火に見舞われているイスラエル・パレスティナの葡萄畑や葡萄の木はどうなっているのでしょうか。戦場となっている地域で生活を営む人たちはどんな気持ちでいるのだろうかと胸が痛みます。特にパレスティナは肥沃な土地ではないようです。荒涼とした岩山が延々とつづく中でこの葡萄の木と畑はなんとみずみずしく生命の象徴としてふさわしいものにうつることでしょう。
 戦争は人間の命だけでなく脈々と受け継がれる精神をも焼き尽くしてしまいます。荒涼とした砂漠しか残らない 荒涼とした砂漠は孤独と絶望 憎しみや懐疑の象徴です。戦争は勝者と敗者を決めるためのものではなく介入する国々の利権のぶつかりあいにすぎず大義名分などありません。
 写真のように木々の距離を置いてそれぞれの育ちを見守らなければどの木も多くの実をつけることができません。狭いところにたくさんの木があれば生き延びるための戦争になるのは国も人間も植物も同じです。距離は物理的なものだけではありません。目に見えない距離があります。似た者同士、目に見えない距離の近さが戦争の引き金のひとつです。お互いの似ているところを受け入れることができなければ結局どちらかが倒れるまで戦うしかなくなってしまいます。似ていることをうけいれる事の方が違いを受け入れるよりむずかしいことかもしれません。
 横に広げられなければ深く根を張り 縦横無尽に枝を這わせる葡萄の木の根元はあっとおどろくほど細く大地にささっています。戦争の解決の糸口が一日でも早く見つかることを祈るばかりですが海の向こうの出来事ではなく一度利権の拡大を目指して戦い荒涼とした砂漠を経験した歴史をもつ国の子孫として葡萄の木を手掛かりに戦争の糸口を考えたいと思います。葡萄はあらゆる手を尽くして荒涼とした砂漠を生き延び多くの実を実らせています。遠い異国の地にあってもできることはあるはずです。
 


2014年8月10日日曜日

孫一 寝返る

孫一 8か月 ちんちんに気が付くお年頃となりました。 
寝返り! 寝返り!の回りの声援をしり目に孫一は体重が重いことをいいことに一向に寝返ろうとしませんでしたがある日ひっくり返って泣いていました。 これが 6月の末ごろ 丁度一年前 ママがお腹を抱えて入院したころです。それを思うと生命の力強さにただただ感謝です。
 そういう思いに浸っていたのもつかの間おばあちゃん 今度は ハイハイ ハイハイといって騒ぎます。なんと調子のよいことでしょう。特におばあちゃんはせっかちです。そんなに急がせてどうしたいというの?。おばあちゃんは反省し静かに見守ることにしました。でも目が何かをいっている!ママ・パパはそう言っておばあちゃんをたしなめます。
 寝返りができた孫一にはいつの間にか前歯が2本見えてきました。よだれも多く離乳食も手でもって口に運ぶようになりました。 寝返りとよだれ 関係なさそうでとても関係がありました。孫一は寝返っては手を伸ばし触ったものを口に運ぶという芸当をするようになりました。手当たりしだいに口に運んでなめつくします。寝返りはいつのまにか匍匐前進となり行動範囲も広がってきました。おばあちゃんは雑巾がけが忙しくなり おばあちゃんと孫一がそろって床にはいつくばるようになりました。 はいつくばってみる世界はまた格別です。孫一のおかげで無くしたはずのペンダントも見つけることができました。匍匐前進からハイハイへ 孫一が機関車トーマスになる 日も近い!!

2014年8月8日金曜日

横浜 ベイサイド

横浜の夜は更けて
 みなとみらい駅から歩くこと10分
大桟橋に出ます。大桟橋の先端には
大きなホールがありますがそこにゆくまでのウッディで起伏のあるペデストリアンデッキは浮遊感のある空間です。大桟橋入り口に置かれた照明のアートと反対側の夜景が異国に誘います。


残暑お見舞い申し上げます

蓼科の空
連日の暑さから逃げ出して蓼科に行きました。 標高が高いということは空気が冷たいということなのだと実感しました。「このようなところで生活していたら空気のよさに鈍感になってしまうかもしれない。いっとき都会の喧騒や暑さから逃れてきたからしみじみ感じるよさもある」とうらやましさの入り混じった感想をぶつぶついいながら しばし香りさえかんじる蓼科の空気と空を満喫しました。
バラクラ イングリッシュガーデンより

バラクラ イングリッシュガーデンより
バラクラは 茅野市のビーナスライン沿いにあるイングリッシュガーデンです。実はこのガーデンがオープンしたての頃に娘を連れてきたことがありました。20数年ぶりです。そのころ新品のテラスも適度に枯れ、芝生ばかりだった敷地にはイングリッシュガーデンならではの草木が所せましと植えられています。 そのころなかったテラスや売店、おおきなテントが増設されていました。日本の庭造りとは趣が異なります。庭の比較文化を語るほどではありませんがどちらもそれぞれの魅力があってどちらの魅力も楽しめる自分っていいなと思います。蓼科にはこのイングリッシュガーデンが似合います



 欧米文化の影響か この庭のベンチに腰かけていると妖精や童話の世界が見えてきます。京都の庭では 妖精というわけにはいきません。極楽浄土という感じ どちらも心の中に眠っている物語を引き出す力が空気に感じられてしばし時間を忘れます。
 残暑から逃れるには 心の奥底の物語を探ってみるのもいいかもしれません。

 

バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...