右に義仲 左に巴御前 |
琵琶湖畔の旧東海道沿いにある一帯は、昔粟津が原といわれた沼地。
源範頼、義経の軍に追われ、この地で討ち死にされました。寿永3年(1184年)享年31歳。義仲の遺骸は、この地に埋められ、その後、愛妾だった巴御前と山吹と思われる尼僧が小さな庵をむすびねんごろに義仲の霊を弔ったといわれます。その庵が無名庵、寺は、義仲寺。時代はうつり、戦国時代には、寺は荒廃します。ときの近江国の国守に寺は、再建され石山寺に、その後三井寺に属することなりました。
江戸時代に大修理がされたようでその後、芭蕉がたびたび来訪し無名庵に宿泊しています。明和6年(1769年)の蝶夢法師の中興、安政3年の火災、明治29年の琵琶湖大洪水、その後改修工事があったものの大東亜戦争と戦後に全建物が壊滅したと「義仲寺案内」にありました。
昭和になり個人篤志家に再建され、その後寄進により改修、整備がされ昭和42年に境内全域が国の史跡になりました。なんともドラマティックないわれをもつお寺です。
正面 翁堂 左が芭蕉の墓所 義仲や 寝覚の山か月悲し 芭蕉 |
義仲の物語に心酔し、「義仲の隣に墓所を」と遺言した芭蕉の墓所としても人心を集めています。義仲の物語と芭蕉、さらに芥川龍之介も義仲大好きらしいことを知り、往時の知性たちの琴線にふれる義仲とは、どんな人物だったのだろうと寺にきて初めて思いました。 鎮魂を底流とする謡曲に親しんだご両人は、若くして志ならず、御上に裏切られ同族に抹殺される「義仲」に美学を感じたのでしょう。「義仲」の墓は、名前すら判読できないほど苔むし、彼の死を憐れむ人たちが「義仲」の存在を840年伝えてきたという感慨をおこします。
翁堂の天井 |
21世紀であっても世界中に「義仲」がおり、「義仲」を作り出す社会があることがなんとも情けなくもありますがこうして無為の死を悼む気持ちがあるかぎり希望もまたあるように思いました。床几にすわれば義仲、巴、山吹、芭蕉、芭蕉の弟子たちの墓が一望できてしまう小さな境内ですが翁堂の天井には伊藤若冲の4季花卉図があります。これもまた判別不能ですが彼もまた「義仲」物語に心を寄せた人なのでしょうか。それとも芭蕉を悼んでの寄進でしょうか。どちらにしても境内は、鎮魂に力があること思い出させてくれ世の無常と安寧を感じることができました。
今の世の中、国防や制裁の議論もよいが、日本にできることは迫害や戦争で傷つく人たちの鎮魂に寄り添うことではないかと国連事務総長のロシア・ウクライナ訪問のニュースを見ながら、琵琶湖湖西線からの近江富士を横目に米原に向かいました。
JR 膳所駅の壁画 |
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