2015年3月22日日曜日

仰げば尊し

仰いでミモザ
卒業式のシーズンになりました。自分の最後の卒業式からはもう40年になってしまいます。小学校のときの卒業式は印象に残っています。極度の緊張感と何か乗り越えた感の複雑な達成感に包まれたことを50年たって思いだします。その緊張感は小さいながら大人になる試金石のように思えました。名前を呼ばれて舞台にたって校長さんから卒業証書を押し戴くというパーフォーマンス 見守る親も階段で躓かないかちゃんと礼ができるかハラハラドキドキの一瞬です。

 今子供が育つ学校の環境は変わりつつあり式典も簡素化する方向にあると聞いています。忙しい親が増えたことも一因にあるでしょう。小学校の卒業式は親にとっても親業のひとつのけじめになるはずです。共働きだった我が家では年度末の仕事でそれでなくても親は気持ちに余裕がなくなります。子供達の卒業式・入学式が重なった年にはおじいちゃん、おばあちゃんも動員して大騒ぎとなりました。今思えば楽しい思い出ですが私は出費は重なるわ、仕事はたまるわで必ず極度の腰痛に見舞われました。そういうこともあって腰痛は最近の知見に先んじて心身のストレスからくるものといういうのが私の持論になっていました。もともとの呑気な性格が幸いして3,4月の春の空気も私の落ち込みそうな気持を支えてくれなんとか乗り越えさせてくれました。なんとかなるものだなあとこの季節になると思います。助けられながら、私自身は無理してみんなと同じように卒業式・入学式に参加できました。今となれば自信になっているのでしょうね。外で仕事をしている母親も父親も卒業式に一緒に参加し子供の成長の喜びを共有できる家族・社会になってほしいと思います。

 とはいうものの成長を喜びあう形はそれぞれです。学校は学校のスタイル、家族は家族のスタイル、自分は自分で卒業を祝えばいいわけです。卒業は何かを達成した証しにすぎません。人生にはいろいろなところに卒業に似た体験があり卒業式に相当するものが用意されています。小学校の卒業式は自分が意識できる最初の体験です。その前に日本では七五三があります。こんなに成長の節目ごとになんだかんだ祝い会う文化も今は昔になってしまうのでしょうか。お祝いの恩恵に預かる人とそうでない人が今まで以上に入り混じって生活してゆくのがこれからの日本の社会のように思います。

 ふと「仰げば尊し」の歌を涙して歌ったときの気持ちを思い出す機会があり青春のさわやかだった頃の自分に出合うことができました。少なくとも私はそうだったと勝手に思えるまでに成長できたことがなんか嬉しい日和になりました。


 
 
 

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