2014年4月22日火曜日

下ノ畑二居リマス。おやつはいつものところだよ。

花巻農業高校敷地内の宮澤賢治像と羅須地人協会の家


新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変えよ

春と修羅 第4集 生徒諸君に寄せる から

羅須地人協会の家の教室
宮澤賢治は大正10年 25歳のときから大正15年 30歳まで花巻農業高校につとめました。30歳のとき依願退職して花巻川口町下根子の実家内別宅で羅須地人協会を設立し、農業芸術運動ともいうべき活動を始めます。元祖文理融合推進派なのです。農業に科学と芸術の融合をみていたのでしょうか。
 現在この家が農業高校敷地に移築されています。家の中に入ると木造家屋の強い匂いが戦前日本の生活にタイムスリップするのを助けます。2階に妹トシが臥せっていました。賢治はここで自炊し 賢治に共感する若い人たちと暖を取りながら交流を楽しみました。

      羅須地人は宮澤賢治の造語 地人は農民を指すようですがきっと土・大地とともに生きる人すべてを意味しているように思います。羅須についてはいくつもの説があるようです。 決め手はなく賢治も取り立てて説明していないようです。
 この板書はただ自分の居場所を教える伝言だけでなくその言葉には「おやつがあるよ」というという意味を含んでいるというエピソードがあることを知りました。「いるよ」でなく「居ります」という襟をたださせるような言葉遣いと合わせ宮澤賢治がいつまでも愛される才能と人柄を持ち合わせた人だったことを思わせるエピソードです。
 明治29年から昭和8年の37年間は日露戦争・第1次世界大戦、世界恐慌・米騒動・関東大震災東北の凶作、冷害が度重なります。賢治が生まれた明治29年の明治三陸大地震・津波そして亡くなる昭和8年の昭和三陸大地震・津波賢治は2つの大地震の間を生き抜きました。賢治の感受性は大地と宇宙と交流し続けざるをえなかったでしょう。
 盛岡・花巻を旅行してイーハトーブ(岩手)の自然は人格を感じさせるものがありました。突き放すようなあっけらかんとした大地と北上川、岩手山と周囲の山々は厳しさと輝きを同時に放っていました。また訪れてみたい土地・人宮澤賢治です。

 
    

どんと晴れ! 老兵 ここにあり

小岩井牧場の一本桜と岩手山
もうすぐ桜咲く
今年はウソの被害はなさそう


岩手山

そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くえぐるもの
ひしめく微塵の深みの底に
きたなくしろく澱むもの
                    春と修羅 第1集 明治22年6月27日

小岩井牧場入り口付近 桜並木の古木
こちらも桜のつぼみがふくらんで古木もほんのりピンク


小岩井牧場 パート3から

生な松の丸太がいっぱいにつまれ
            (陽がいつかこっそりおりていて
             あたらしいテレピン油の蒸気圧)
1台だけがあるいている
けれどもこれは樹や枝のかげでなくて
しめった黒い腐植質と
石竹いろの花のかけら
さくらの並樹になったのだ
こんなしずかなめまぐるしさ






2014年4月18日金曜日

苦境でわかる私の限界

朝のニュースでボストンマラソンのテロ事件から1年の町の様子やテロには負けないという市民の意気込みを伝えていました。「苦境でわかった私の限界」はそのニュースの中で爆破により足を切断しリハビリに取り組む女性の発言でした。その女性は理不尽な被害にあったこと、足の切断という現実を人生の途上で抱えることになりました。その瞬間まで誰がそのことを予測することができたでしょう。それを思うと明日は我が身と思わざるをえません。
 私も60年の人生で何度も自分では苦境と思う状況を経験してきました。彼女のいうように確かにそのときに思わぬ知恵を発揮することができ出会いを得ることができたように思います。だから彼女の言葉が痛いほど心に残りました。もう一人被害にあい苦しい1年を過ごした女性は
「私にはこんなに力があったのだという知ることができた」と言っていました。なんと前向きな人たちでしょう。それだけに彼女たちの身に降りかかった理不尽さや痛みが想像されます。
 このニュースは力強く復活したボストンの様子を伝えるものでした。いまだ打ちひしがれて生活を立て直せない人たちは山ほどいるでしょう。ニュースは1面にすぎません。が苦境が人にいろいろなことを考える機会をつくりその人の人生を深めたことは確かのようです。苦境に立たされたことのない人はひとりもいないでしょう。テロや戦争のない社会をめざしつつも巻きこまれてゆく現代です。そのときになってみなければわかりませんがもし生き永らえることができたら「私」も彼女たちのように振り返えることのできる人間であってほしいと願います。 しかし どうかな? このヤモリのように尻尾をつままれて遠くに飛ばされてしまったら・・・。飛んでゆくヤモリは何を考えるのでしょう。「ヒエー」 か「鳥になったか?」「人間ども!!」 3択とすれば今の私は「鳥になったか?」と思うでしょうね。ここが対岸の火と思っているお人よしのお人よしたるところです。「人間ども!!」と思うのが当たり前の感情でしょう。
そこで人間に一矢を報うことができても解決できない問題が自分に残る。それが苦境です。苦境は自分という戦場かもしれません。お人よしには戦場が見えないでしょうね。戦場が見えないと生き残ることも難しいというものです。

2014年4月13日日曜日

いないいないばばあ ・・? おっと いないいないばあ!


いない・いない・バンブー
いないいないばあ いないいないばあ で孫一が笑うようになりました。 生後5か月。お母さんとお父さんの顔はわかっているようですね。ときたまご機嫌伺いのおばあちゃんのいないいないばあに、いまひとつのりの悪かった孫一が今回はしっかり笑いました。手で隠した顔がいないいないばあといって顔をだしたときのはっとした表情はこれまでにない感情の表れのようです。知的とでもいいましょうか 好奇心とでもいいましょうか 雨後の竹の子のような力強い表情です。
 いないいないばあの写真を探しているときに昨年の竹の子採りの写真を見つけました。春先の竹林で竹の子を見つけたときの「しめた」という感じに似てるような気がします。 採集民族の血が騒ぐという感じ 狩猟民族の血でもいいですね。孫一もそんな血が騒ぐようになってきたのでしょうか。確かに手に触ったものをつかんだり離したりするだけでなく、口にもっていくようにもなりました。つかむ力も強くなりました。ベッドサイドには、小さなぬいぐるみが10個ほど洗濯ばさみにつるされています。孫一はこれをよく見ていますが最近は手を伸ばすようになりました。ある日この小さなぬいぐるみたちはすべてベッドに落とされているという事件がありました。もちろん孫一の仕業です。
みた!つかんだ!とった! トラ・トラ・トラ 孫一戦闘態勢に入ります。おばあちゃんだって 「いないいないばばあ」などとは言わせないぞ。






デイ・サービス みっちゃん


横浜 山手111館のテーブルデスプレイ
日曜日に二人の老婦人をお招きして我が家でランチをしました。お二人とも母の友達です。3人の合計年齢は233歳になります。 母の一周忌も終わり気持ちにけじめもついたころです。お二人にとっても母とは同年齢でお互いの健康を気遣う間柄でしたのでさみしさもひとしおのことと思われました。お一人はご主人を亡くして一年 もうお一方は独身を通された方です。共通項は母と茶道というところでしょうか。それぞれが母を通して知り合いました。この日は牛肉たっぷりすきやきと私のつくった春野菜の含め煮ですませました。「お醤油とお酒、みりんとお砂糖、お水で割り下をたっぷり作っておくといいのよ」と母と同じように私を諭した後、お話の弾むこと弾むこと お一人は耳が遠くなられてから外出も億劫になってしまったといわれましたがご自分のこと、母のこと、茶道のお稽古このことをよく話されました。もう一人の老婦人もはっきりしたもの言いが潔く、滑舌もすばらしいので耳が遠くなられた方にとってもよくお話が聞こえていたのでしょう。お食事をしながら2時間楽しくすごすことができました。人生80を過ぎるとご自分の人生を振り返り言葉にしておきたくなるお気持ちが伝わってきます。お話をしながらご自分の終活の思いを語られるお二人に清々しさがありました。きっとよい人生の閉じ方をされるのではないでしょうか。頼もしく感じました。お二人ともお互いの人生に興味を持たれたことがお話を深いものにしていました。なぜ結婚に踏み切らなかったか。連れ合いがなくなってからの生活をどう楽しもうとされているか、茶道やお稽古事になんど助けられてきたことか。などなど私の話など木端微塵のごとく消えてしまいます。自慢話でも悲観的なお話でもお説教でもないほどよい加減のお話のお出来になるお二人です。母が亡くなってしまい身近に年長の身内が少ない私には貴重な存在です。私の知らない母もあり70代 80代の生き方ヒント集のような2時間でした。またこんな機会を作ってみましょう。ちょっとしたデイ・サービス気分ですが・・・サービスを受けたのは私のような・・・
 いろいろな社会的なサービスが増え利用者もサービスを選択できる時代になってはきましたが身近にできるサービスにもっと頭を使ってもいいのではないでしょうか。60代はそんな頭の使い方をしてみたいと思いました。

参上!ギャートルズ

ギャー
孫一 4ヶ月 ギャーギャーも近頃はバラエティーにとんできました。日本ではギャーギャーは泣き声と言いますが婿のアメリカでは叫び声と言います。泣き声と叫び声ではだいぶニュアンスが違いますね。日本人はウェットな精神構造だといわれています。ギャーギャーは「泣いている」と聞こえ可哀想という感情を引き起こして強く抱きしめる行動に親が出がちになります。
 同じ状況でギャーギャーの声が叫び声に聞こえると「どうしたの?」と近寄るか「何!!」という危機感をあおられたりします。泣き声にしても叫び声にしても親の感情はぐっと引き寄せられますが目の前の赤ちゃんに対しての構えには違いがでるように思うのです。この構えの違いが子供の育ち方にも大きく影響している思います。自分は親から「かわいそうに」と思われて近づかれてこられたか「なんだ?なんだ?」と好奇心の塊になって見つめられていたか。どちらがどうということはありませんが「なんだ?なんだ?」と赤ちゃんと一緒に同じ方向を見るという気持ちも成長には必要な関わり方に思います。どちらの眼差しに偏ることなく見つめられたら赤ちゃんものびのびと育ってゆくように思います。若い親は抱きしめたくなるような気持ちと何だろう?という気持ちに翻弄されながら赤ちゃんと一緒に人への距離感を育ててゆくのですね。
とるぞ
「かわいい」も「可哀想」と同じように相手に強く向かってゆく眼差しです。おばあちゃんは「かわいい」に偏りますよ。だって「なんだ? なんだ?」はだいたい答えに検討がついてしまいますもの。
 自分の子供特に長女のときは何もかもが初めてで子供がとんでもない生き物のように思えていました。今でも子供たちは「なんだ?なんだ?」の世界ですが。孫は違う。「かわいい かわいい」です。
 といっても孫は孫 自分の子供ではないので娘の遺伝子、婿の遺伝子、社会の荒波でどんなふうに展開するのか未知数ではあります。「かわいい」「かわいい」ばかりでなく「フォローミー」のように後ろからついてゆく眼差しもおばあちゃんには欠かせません。そういえばギャートルズはいつも草原をみんなで列を作って走り回っていましたね。もうすぐ孫一の後をお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、おじさんが追いかけまわる日も近いでしょう。追いかけまわせるほどの草原が身近にあるといいのになあ。

はじめ人間ギャートルズ
 歌詞 園山俊二
 作曲 かまやつひろし
http://www.uta-net.com/movie/39513/


バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...