2016年11月22日火曜日

紅葉狩り 九品仏浄真寺

天然記念物 大銀杏



鐘楼

               3年に一度のお面かぶりは 来年2017年5月5日
               

紅葉狩り 北浦和公園


フェルナンド・ボテロ「横たわる人」1984

2016年10月9日日曜日

2016 リオ オリンピック パラリンピック


無事リオのオリンピック・パラリンピックが終わりました。 あっといるまに
オリンピックがひらかれてから1か月たってしまいました。ほんとに開催できるのだろうか。」
「まだ完成していない施設があるそうだ」といったニュースや昼の番組のコメンテーターの話題は
なんだったのだろうと思います。他国の心配性の人たちの口さがない噂話とは裏腹にリオ・オリンピック、パラリンピックが開催され戦闘地域をのぞき世界中がのメディアはオリンピック
一色になってしまいました。メディアも今度は日本で開催ということもあるせいか微に入り細に入り番組を流します。
 今回の成果はなんといってもパラリンピックの放送時間が多くなったことでした。
身体障害の身体の様子も新鮮でしたがその競技の力強さはオリンピックに引けを取らず
楽しく力が入りました。多額の国家予算がかけられる国が多くの金メダルをとれる
仕組みになっているオリンピックより どの国の障碍者スポーツの状況も大きく変わらず
地道に生活をやりくりしながらスポーツに取り組んでいる人たちの競技の方に
本来のオリンピックの姿があるように思えました。
 にしてもブラジルというお国柄は日本とは明らかに違うものがあることをスタンドの光景
をみていて思います。バリアーフリーは建物の構造や手の届かないところに
手を届かせるサービスを世界一の「おもてなし」と思っている日本。果たしてそれだけ
でしょうか。政情不安定、経済生活ままならない人たち、格差もひろがるばかりのブラジル
が世界に発信したのは「もたない国」が
もっている「明るさ、暖かさ」だったように思います。果たして「もっている」と自負するCOOL JAPAN日本は「明るさ、暖かさ」をどのように
伝えることができるのでしょう。
  

2016年10月7日金曜日

ママのおっぱいは からっぽ! 孫一宣う。

「ママのおっぱいはしぼんじゃったよ!」とママが寂しそうに言いました。
3歳目前の孫一が断固とした調子で「ママのおっぱいは空っぽ」と留めをさしました。
秋晴れの朝の一幕です。
 もうすぐ3歳の孫一は 成長もめざましいものがあります。一番の成長は夕食後の
ひとときの会話です。相変わらず積木やプラレールとお話ししながら遊んでいるのですが
完全に家族の面々を視野にいれています。おばあちゃんは必至に孫一との会話を
つなげようと付き合うのですがそのときは会話になっていてもあとで何を話したか
思い出せません。思い出せないのはおばあちゃんの年のせいというよりはオノマトペの
世界だからでしょうか。オノマトペを採集した宮沢賢治はたいしたものです。
採集というより彼の世界にはこの頃の記憶が生きていたのかもしれません。

  おばあちゃん:「彼の名前はなんていうの?」 と手にもっている積木をさします。
  孫一「ぺろろ・ピュー・ぶちゃぶちゃ」
  おばあちゃん:?!%&#*&!?

絵も描きます。
マミー


ダディ
おばあちゃん
めがねをかけたおじいちゃん



孫一 パワーアップ!

 ペダルのない自転車のストライダーの乗りこなし方はたいしたものです。緩やかな傾斜
を使って上手にカーブをきります。寄せて止めるのもお手の物。傾斜に負けて頭から
突っ込むことすでに2回、鼻の頭に大きな擦り傷をつくりました。これでオデコより鼻が
高かったことになりました。
 バスケットボール・サッカー・ボーリングスタイルでボールを投げ分けます。目標に
あたったときの喜びようは筆舌につくしがたく周囲に「末はオリンピック!!」の夢を
まき散らします。朝起きたときはぶすっとしていますがパンを一口いれた瞬間から
エンジン全開、夜部屋の電気が消えベットにバッタと倒れるまではお口と手と足は
勝手に動き続けています。ママの話では寝ていても ときには360回転している
とのこと さらに手はおっぱいを求めて動いているようです。
「おっぱいは空っぽ!!」というのは孫一の切ないというより抗議の一言かもしれませんね。
孫一のパワーの原動力がおっぱいからパンになりました。

孫一 唯我独尊に向かう

 ということで立派な💩です。 オムツは寝るときぐらいです。ママ💩! おしっこ!
と教えてくれるようになり外出も楽になりました。 💩はママ おばあちゃんはおしっこ
という勝手なルールを決めてきます。 💩はおまるを使っていますが自分で蓋を開け
、ズボンをおろしておまるにすわります。ときどきうなり声が聞こえてきます。終わった
後がまたかわいい!! おまるの前に手をついてお尻を突き出して拭いてもらうのを
待ってます。おしっこはときどき「立ってする」と宣言してトイレに向かいます。途中で
振り向きおばあちゃんに手招きします。仕方なくおばあちゃんは ついてゆき蓋を開
けて準備します。こちらは前を突き出して気持ちよさそうな顔をしたりおしっこの飛び出す
先を眺めて感想を一言「あっ 回ってる。」 蓋をしてあげると自分でレバーを倒し水を
流し、使っていない指先を丁寧に洗いタオルで拭きます。手を洗うのはおばあちゃん
だろうに と思いながら・・・孫一のトイレ・デートは終わります。
 







2016年9月19日月曜日

小さい秋 見つけた!

ねこじゃらし公園も秋


見える? あけび

Oh! 彼岸花
あっ ひょうたん!

からすうりの花

     曇り空の東京 昼下がりの散歩道は もう秋模様です。この年齢になってやっと
   散歩らしい散歩の時間が作れるようになりました。なにかしらに追われていないと
   後ろめたさを感じてしまう世代なのでしょう。いろいろやることを思いつくのですが
   集中できる時間も短くなり腐ってしまいそうなときに散歩はいい気分転換になります。
    私は少々匂い音痴のようで60代になってから強い匂いでないとわからなくなりまし
   た。散歩をしていると町の匂いや草いきれなどいろいろな匂いを感じ取れるのは気持
   ちがいいものです。原っぱで遊んでいた体験がよみがえるから不思議です。町から
   こうした草木花の匂いや香りが消えてしまわないよう。
    

2016年9月18日日曜日

晩夏の札幌 モエレ沼公園


ちとせ川 手前インデアン水車

千歳水族館(淡水魚水続刊) サケの遡上まじか
大通り公園の夏最後 夕暮れ時のフェスタ

札幌市資料館 旧札幌控訴院 おおば比呂司氏記念室あり

モエレ沼公園 ガラスのピラミッド「HIDAMARI]

OMPHALOS bu Isamy Noguchi

ガラスのピラミッドからモエレ沼公園夕暮れ

 台風14号を追いかけるようにして北海道に行く機会に恵まれました。ゆっくり観光とは
ゆきませんでしたが札幌の町を楽しみました。モエレ沼公園は彫刻家のイサムノグチの
デザイン画をもとに札幌市が1982年に着工2005年にグランドオープンしました。 
イサムノグチが日本に公園を手掛けていることを知っていましたが亡くなって頓挫してしまったか
と思っていました。今夏 公園の設計プロジェクトの本を読み、グランドオープンまでの経緯をしる
ことができたのでぜひ行ってみようと思っていました。時間の都合で夕方になってしまいました
「海の噴水」のライトアップを見、レストラン・ランファン・キ・レーブで北海道食材の創作フレンチ
を堪能しました。ぜひ次回は公園をひとめぐりしたいものです。
 今年の台風は北海道直撃コースが多く甚大な被害が出ています。大きな被害にならないこと
を願います。この広大な空と解放感のある土地柄とゆっくりした土地の人の話し言葉にせわしない
東京人は癒されて帰路につきました。
 

2016年9月6日火曜日

処暑 です。

砧公園のサンクチュアリ
ゆさゆさと茂り動けば幹見ゆる 虚子

緑陰を盲人知るや風こもる 清水昇子
世田谷美術館 前庭
setabi cafe

2016年8月15日月曜日

8月15日の花森安治と田中角栄

皇居外苑 今
  炎天下の皇居前広場に花森氏
はいた。そのとき37歳だった
と書いています。 田中角栄 27歳
  戦後の日本を引っ張ってきた世代
の代表格の2人です。今年はNHKが
この二人を取り上げています。花森
安治は朝ドラの準主役の花山さん
のモデルとして 田中角栄氏はNHK
スペシャル昭和未解決事件ロッキ
ード戦後最大の疑獄事件の主役と
して「 田中角栄」についてはすでに
巷でも再評価ブームが起きています。
   バラエティやグルメ旅、ドラマや
ニュースなど多種多様な番組の中
この二つの番組にメディアの隠された意図を感じるのは私だけでしょうか? 何事も振り返るのは大事。時が経って見えてくるものあり です。特に還暦の私にはこの二人の社会に果たしてきた役割や仕事が懐かしく感じられます。
「暮らしの手帖」は家にありました。りんご箱も重宝してました。部屋の模様替えや手作り
洋服に執着があります。一方大学生の頃、紀尾井町の福田屋にお出ましの角栄さん
に群がる報道陣に遭遇。ヘリコプターが児玉邸に墜ちて事件がおこり自分の家の近くに
丸紅ロッキードラインがあることがわかり 政治の世界が一挙に身近になりました。
   なぜ 今その時代?  この2人の共通項はなんだろうと考えるとそれは 敗戦日8月15日
ではないかと思うのです。37歳と27歳 が受けた敗戦という事実  焦土と化した首都 原爆
投下 天皇の人間宣言、二人とも平和な時代であれば心身ともに充実期を迎えるはずの
年頃です。今私たち還暦組の親はその二人の世代です。物資が不足する中焼野原で家
庭をもち生活を始め社会の復興の担い手になった人たちでした。昭和28年には、テレビ
が誕生し戦後の苦しい生活から社会にやっとめどがたってきた頃です。遺伝子が伝える
のでしょうか私にも8月15日は特別な日という思いがあります。.  花森安治が書いているよ
うに戦争の前線に立った人たち、それを支えた家族にはこの日は「終戦.」です。「負けたん
でしょ」と他人事のように言える世代には「敗戦」でしかありません。.日本語は微妙な立場
の違いを写します。
   そして「敗戦」組の役割は 当時の出来事を多角的に明らかにすることだと思うのです。
私も含め日本の文化は「和を以て貴しとなす」という世界に類を見ない価値観を持てる国
と思います。あいまいさも大事ですが何と何の和なのかを説明することをもとめられている
ときそれに答えられているだろうか?と考えざるをえません.
 「終戦」組との世代交代はすすみ「敗戦」組の時代です。戦争を生き残ってきた人たちの
活力に比べたら「敗戦」組はどこかひ弱です。「戦争を知らない子供達」は頭でっかちで
被害者意識が強く自己評価が低い。」って言われます。それは仕方がないと近頃は思う
ようになりました。しかし戦争に替わって震災や犯罪、倫理観を揺さぶる科学技術の
進歩・清濁入り乱れる情報の洪水、それはそれで重くのしかかってきています。。
   「暮らしの手帖」のコンセプトは神格化した天皇という存在が消えた国民が二度と戦争
の轍を踏まないために守るべきものを持つことにありました。。.守るべきは天皇でなく
自分の暮らし、 その暮らしを豊かにすることが戦争をしないことになると花森氏は考え
行動したのです。たしかに当時の夢は実現し暮らしに物が溢れ豊かになりました。
戦後70年、その暮らしを見直して豊かさのバージョンアップを図りたいところです。
物が溢れること・自分の満足・経済的指標だけが豊かさでしょうか? !
「暮らし」が「暗し」にならないよう。ねっ 安倍さん!!

  
 

皇居前広場の松並木

2016年8月12日金曜日

おばあちゃんの「ジャングルブック」と夏の孫一 

 この夏のビッグムーヴィーはなんといっても「ジャングル ブック」だとおばあちゃんは思ってる.。映画館に連れ出すには未知数の孫一を置いておばあちゃんは一人映画館に向かいました。
 まだ孫一は、映画館というものを知りません。映画館でみると映画の世界にどっぷりつかれます。還暦組は、映画世代でもあります。強い刺激は映画館でと思います。テレビやスマホの小さな世界で満足するほど人間が小さくありません。2歳の孫一にはジャングルブックの映像は刺激的でしょう。毎週行っている動物園の動物たちと話ができると思っても不思議ではありません。オオカミに近づいてしまうかもしれません。主人公モーグリの冒険と自立の映画はいづれ見る機会はあるでしょうから今日はおばあちゃんだけの楽しみにしようと思いました。長女は、たしかに5歳だったと思いますが職場と保育園に仮病を使って休み「オズの魔法使い」を見に行行きました。ドロシーのような女の子になってほしいと思ったかどうか定かではありませんが初めて親子で見る映画というのは少し思い入れがあるでしょう。ちなみにこの長女 は小学校4年のとき「ボディーガード」を父親と見ています。不思議だ。相手が違うだろう。と私は思っていますが.? それはさておき
作 magoichi 
  夏本番 孫一の生長ぶりは素晴らしく。よく食べ よく寝ます。.帽子を頭に乗せるとひょいとつばを後ろに回して生意気なかぶり方をします。朝いそいそ出かけるママを追いかけて行く姿がなんとも可愛いかぎりです。夜はカブトムシもそっちけでニンニンジャーになりきっておおはしゃぎ。オリンピックが始まり 柔道や体操の選手の技にはさすがのニンニンジャー孫一も驚愕! 「孫一くん できなーい」といいますが言いながらもニンニンジャーのジェスチャーに磨きがかかってきていることは確かです。
  手抜きを知らない2歳9カ月 手抜きばかり考えてるおばあちゃんには新鮮な生き方です。マネが真似らしく なってきています。明らかにアレだろうというマネをします。お母さん、お父さん おじいちゃん お行儀気をつけてね.とおばあちゃんは、 叫びたい.!!
  マネといえば 丸もかけるようになりました。おじいちゃんがアンパンのキャラクターを描いてみせるとじっと見ています。つぎは自分だ。と思うのでしょう画用紙いっぱい の丸ができあがりました。それまでは左右には鉛筆をゆらすだけだったのに コントロールしてる!!!

   「 ジャングルブック」は ウォルト・ディズニーの遺作になった映画です。1967年に上映されました。私はそのとき12歳 私はそのちょっと前1961年ごろテレビで放送されていた「少年ケニヤ」に夢中だったのではないかと思います。「少年ケニア」のようにジャングルを走り回る原っぱが家の周りにいっぱいありました。思いっきり走り回わる快感はコンクリートジャングルで育つモーグリたちにはないだろうなと寂しい気持ちになります。いまどきのモーグリだけでなく足元にあやしさを覚えるおばあちゃんにも「ジャングルブック」は動かずして走る身体感覚を思い出させてくれる楽しい映画になりました。

2016年8月8日月曜日

忙中閑 2016

   CDジャケットから 
  サラリーマンの生活から離れて早3年やっと年金生活になりました。が左団扇の隠居生活とは縁遠い日々を送っています。
  毎年この頃になると蓼科フォーラムで開催される小林研一郎音楽事務所企画のレクチャーコンサートのお誘いを受けます。蓼科なので宿泊をして楽しむことになりますので忙中閑の贅沢な暑気払いです。
  レクチャーコンサートの楽しみは若手の音楽家たちの技と小林研一郎さんが指揮者独特の表現と指揮棒で彼らの演奏を指揮者のイメージに引っ張って行く姿を身近に感じられることです。
  小林研一郎さんは急所をぐっと抑えて優しい言葉で褒めながら演奏方法を提案します。「自分で考えろ!」なんて少なくとも聴衆の前では言いません。自らもピアノ演奏をよくされる小林さんだから演奏の難しさや求めていることの高さがわかるのでしょう。
 指揮者は時としてリーダーシップを考えるときのシンボルに挙げられます。リーダーシップに不可欠な信頼を得るというのは相手の言葉で語るということなのだとこういう場面をみると気づかされます。
 今回は「タンホンザー」序曲ワーグナーの名曲です。オーケストラの演奏では要求される演奏テクニックが極めて難しい曲の一つと解説されました。ワーグナーの曲は壮大さとヒトラーを思い出させてしまうので最初どうかなあと躊躇していました。
   レクチャーが始まってみると昨年のようにダメ出しで聴衆がストレスフルにならずに聴くことができました。この曲がそうさせてしまうのか小林研一郎さんのサービスでもあったでしょうが。金管楽器を始めオーケストラが奏でる音はナイアガラの滝のように迫ってきて聴衆を魅了しました。音楽はイデオロギーを超えるということですね。
  鳴りやまない拍手に応えてヴァイオリンの瀬崎明日香さん、トロンボーン の藤原功次郎さんが 愛の讃歌と定番になったモンティのチヤルダッシュ などを披露。アットフォームなアンコールもスペシャルでした。レクチャーコンサートは今年限りということもあったのかもしれません。印象に残るコンサートでした。こうして今年も私の夏が始まります。頑張ろう!!!!


メルヘン街道沿いのサラダ野菜専門店から蓼科の空





ウルフ逝く  千代の富士

ウルフ 土俵入り
北の湖の訃報の記憶もまだ新しいのに千代の富士の訃報をきくことになってしまいました。
    同世代の代表的存在を失うのはなんとも寂しいかぎりです。私たちの世代は戦後に生まれ高度成長期の社会の中で親共々振り回されて育ってきました。今のように多様な文化や価値観が許される社会と違い「 どっちか選べ!」の時代を生き抜いてきたような気がします。生きるか死ぬかから 嫌いなものを食べるか 食べないか?結婚か進学か  働くか嫁入りか?遊ぶか勉強か?どの年齢になっても2者択一でものを考えていた記憶があります。それだけに緊張しないと考えられないタイプの人も私たちの世代は多いのではないかと思います。
  優柔不断で決められないタイプだった私が好きなものから食べ、リラックスや気分転換や楽しみに後ろメタさを感じなくなったのは結婚したころからだったと思います。このままいったら子供や家族や職場に使い古されてしまうという危機感が現実のものになってきてからでした。
 それはさておき 北の湖と千代の富士2人の相撲取りの人生も私たちの世代を写して面白いです。基本に忠実 四つに組んだら圧倒的な強さの横綱相撲の北の湖 小柄な体格を引き締まる筋力と技でバージョンアップさせた取口の千代の富士、引退後 北の湖は相撲文化の継承者を全うし千代の富士は、親方として後進を育てることもろもろを楽しんだと聞きます。
  今 千代の富士タイプの楽しんでなんぼを選択する時代になってきています。効率よく能力を発揮することも当然の時代です。千代の富士はイケメンでスマーで土俵を降りても勝負事から離れられなかった相撲取りだったと思います。 しかし両横綱とも忘れてはならないのは、地道な練習に耐え百戦で鍛えたメンタルとピカッと光るセンスではないでしょうか。引退後の人生、過去の栄光に振り回されることもあったかもしれませんが自分らしく切り開いていったのではないかと偲ばれます。同世代として早すぎるお二人の死ではありますが誇らしく思ってます。ご冥福をお祈りします。


今年の名古屋場所で

2016年7月17日日曜日

終の棲家を楽しむ 若冲・石峰寺

京都 伏見・京阪深草駅から琵琶湖湖水にかかる橋をわたり東の緩やかな坂をあがると赤い門構えの寺がひっそり見えてきます。伊藤若冲が晩年を過ごした石峰寺です。1788年 京都の天明の大火で被災した若冲はこの石峰寺に身を寄せ「斗米翁」と称して米1斗と画1枚を交換する日を送りました。米に替えるだけでなく彼は石切り場から石を買い石工・弟子たちとともに500羅漢の製作をしました。最終的には1000体の石像がこの小さな竹林を埋めつくしたようです。
 今に残る500体を通してお釈迦さまの誕生から涅槃に至るまでの生涯を竹藪をのぼり下りまた昇り、下るなかでたどることができます。竹の合間に見え隠れする石像が、この倍も配置されていた往時をしのぶと、いまさらながら、若冲の博覧狂気ぶりが晩年も衰えることなくたぎっていたのだとあいた口がふさがりません。被災して無一文のはずがこの元気! 
500羅漢の表情や苔むして形のくずれた石仏たちが往時の若冲の胸中を伝えてくれるように思います。生誕300年記念の若冲展覧会でみる天才肌の作品群とは違い隣のおじいさんみたいな親しみを感じます。彼が晩年に向かったものは人間そのものだったのでしょう。被災し資産もなにもかもなくしてしまった若冲にとって毎日石仏を通して人間に向き合うことが生き残る術だったかのようです。逆境だからこそ「自分がやりたいことをやる。」、それが生き延びる元気を生み、最後まで生き生きと生きることにつながるというヒントをもらいました。若冲は逆境を楽しむという才能をもっていたのだとこの寺に来て発見しました。

絵葉書から 石峰寺ではスケッチ・写真撮影ができません。 

涙のスイレン

スイレンはバングラディッシュの国花
バングラディッシュのテロで亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
突然の出来事から少しずつ平静に戻りつつあるニュース番組のキャスターやコメンテーターの言動を見ながら新聞の記事に目を通します。 一連の事件は周到に計画されイスラム教の大切な行事ラマダンの最後の週に実行されました。バングラディッシュ人のグループによる外国人を狙ったテロで日本人7人が犠牲になりました。7人の日本人は旅行者ではなくバングラディッシュのインフラ整備や保健事業に関わる人たちで国際協力の手足となって現地の人たちと一緒に働いている人たちでした。
 犠牲になった人たちのことを思うと彼らの意志を継続をすることが国際協力の分断を図るテロリストのねらいを覆す最良の手段のように思います。
 バングラディッシュのテロリストたちの背景もわかってきました。彼らは雇われて事件に加担したのではなく「IS」に洗脳され自分の行為を正義と信じていました。実行犯は貧困層が多く途上国であるバングラディッシュの中で情報ツールをもち教育をうけられる経済的には恵まれた人たちであることもわかっています。
 私は25年前に出会った一人の若いバングラディッシュからの留学生を思い出します。私が作った「求む英語の個人教師 当方小学4年生」のポスターを見て訪ねてきた日本に来たばかりの若者です。彼は最初に自分の教え方を見てから決めてくれといい、小学4年生のやんちゃ娘に英語を1時間丁寧に教えました。英語圏の出身でないからどうかな? バングラディッシュってどこ?と最初は不安と興味が入り混じりながらスタートしました。 彼の日本語は片言でしたがそのうち日本語で会話を楽しむようになりました。娘がだらだらしていたりふてくされるとしっかり怒ります。父親に怒られたことのない娘はびっくり。「でかした 若先生!」 彼は母親の不安を察したか英語の発音をテープで補ってくれました。私だったら日本語を異国の小さい子にこのように根気よく教えられるだろうかと反省させられる場面も何度かありました。夜7時になればメッカの方角にむかい、ティッシュを畳にひいて祈ります。唐辛子の瓶を携帯し、だされた夕食にたっぷりかけて食べていました。飼っていた金魚をみて「おいしそうね」といわれたときにはバングラディッシュの川の文化を身近に感じてほほえましいものがありました。笑顔と澄んだ黒い瞳がきれいな学生さんだったことが思い出されます。イスラム教とキリスト教の違いや習慣の違いをよく説明してくれ「自分の研究は交通渋滞の緩和システムだ」と母国の事情を説明されました。話を通して政情不安を憂いいずれ自分たちの世代が国を担っていかなければならないと熱い思いがあることが伝わってきました。そのうちに私は途上国のこの青年の応援団になっていました。彼はその後同じバングラディッシュ人のお嬢さんと結婚し子供ができ母国で盛大な結婚式をあげて幸せそうでした。新居やイスラム教のお祝いの日に招待しされたたことが思い出されます。卒業後かれはビジネスマンとして就職、アメリカにわたり今は家族・一族とカナダで生活をしています。
どんな思いで今回のニュースを聞いているでしょうか?彼のテーマだった母国のインフラ整備は順調に進み国も少しずつ豊かになってきています。それに貢献している日本人企業の人たちが犠牲になってしまったことにきっと胸をいためていることと思います。
 経済的に恵まれ多くの情報を手にし、教育が受けられる環境で育つということは先進国では当たり前のことになってきています。イスラム教もキリスト教も「人を殺すこと」を禁じています。またどちらも「信じることのために命を惜しむな」ということを信条にしています。この二つをどう結びつけて「信じることのために人を殺す」と考えることができるのだろう。教育は論理的にものを考える力を養いそれが文明の推進力になってきました。過去の戦争は富や権力の集中で生まれたひずみから始まり凝りもせず繰り返されています。「信じることのために人を殺す」偏った情報だけを閉鎖的な環境で日夜繰り返し教育されたらこういう論理を持ってもおかしくありません。過去の日本もそうして行動するエネルギーを生み出したではありませんか。教育するべき人たちが論理的な思考だけでなく同時に批判する力や共感に必要な感情をコントロールする力、ルールをよい方向に組み替え他の価値観を受け入れられるよう鍛えていたらと思うと残念ですし 日本の教育だって危ないぞと思います。 
ピーター ブルーゲルのバベルの塔
社会の格差を感じ不公平感をあおられ破壊に向けて行動を起こす実行犯の人たちの笑顔の写真は「痛み」や「命」を思い起こすだけの想像力もなくなってしまっていることをものがたっていました。彼らもまた犠牲者なのかもしれません。
 人間が持つ権力へのこだわり、利権、憎悪、差別、暴力、抑えられない強い情動に若い人たちが、操られていることをこの事件は教えてくれています。今を生きる人間たちは知らず知らず情報という言語を共有し人間の業の象徴である「バベルの塔」を作り始めているのかもしれません。富の集中から分配へ、情報を吟味する力や論理と共感のバランスの良い教育など人間の知恵を集め人間自身の業に対抗しなければならないでしょう。

 *ババルの塔 旧約聖書の逸話  wikipediaより引用(https://ja.wikipedia.org/wiki/バベルの塔/
バベルの塔の物語は旧約聖書の「創世記」11章にあらわれる。そこで語られるのは下記のような記述である。位置的にはノアの物語のあとでアブラハムの物語の前に置かれている。

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアル[3]の地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
— 「創世記」11章1-9節[4]
 


バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...