2017年4月24日月曜日

エプロンと私

 毎年 春にズブロッカというポーランドのお酒を囲んで亡きボスを偲ぶ会が
あります。ボスとは 日本のX線天文学の旗印。パーティーの主役はもちろん
ボスの奥様。奥様も米寿となり集まられる方々も前線を退かれてはいるものの
旺盛な好奇心と研究魂をのぞかせてチャーミングです。
 毎度食材を持ち寄ってのパーティーで春の宵を楽しませてもらっています。
白髪の方々がボスの奥様をいたわる姿に宇宙元年を生きてきた人たちのやさしさが
感じられます。奥方が集う場でもあり研究者の半分子供みたいなところの残る夫と
どうお付き合いするかが主な井戸端会議のテーマになるわけでこちらも楽しい。
「私だけでなかった!!」と励まされます。
 夫たちは酒類、妻たちは料理を持ち寄り妻たちの必須アイテムがエプロン。
私もこのときばかりはエプロンをもって出かけます。この日の女主人は手製の
小花柄のロマンチックなエプロンでした。なので女性陣はみんなエプロン姿。
それがこの場の雰囲気を作っています。気取らず適度な緊張感で、私も束の間
良妻賢母になりきります。平均年齢は70代まさに昭和です。女たちの旗印は
やっぱりエプロンなのです。
 研究者の妻も専業主婦から共働き夫婦、研究者同士の結婚で別居生活、海外生活とグローバルになり変わってきています。ズブロッカも輸入元の事情で手に入りにくくなっているとのことでした。今年が飲み納めです。こうして春の宵はふけてゆきました。エプロンおばさんの生活スキルと拡散する家族の孫育てやムズカシクも素直で頑固な夫の操縦術などなど。しっかりドレッシングのきいたグリーンサラダ、絶妙なローストビーフ、セロリの炊き込みご飯と今年もまた女主人の手料理にノックアウトされた面々でした。

2017年4月18日火曜日

復活の物語

ここのところ 本に恵まれています。先ごろ「人はなぜ物語をもとめるのか」
という本を読みました。著者は物語を多角的に研究し古今東西の物語を分析しその根源に
ある人間の性に取り組くまれています。
 『あなたは「物語る動物」です。』という第1章の目次が目を引きました。
最終章では宗教も物語りであるという立場をとって新鮮です。人は信頼をベースにした「渡る世間に鬼はなし」と不信をベースにした「人を見たらドロボウと思え」の間を行き来して
物語りを紡いでいる動物だというわけです。紡いだ自分の物語りにこだわりすぎることへの警鐘をならしています。この本は自分の生き方から逃れられず苦しんでいる人に向かって語りかけているようです。

ウクライナ・エッグ
さて復活祭は人が生まれ、他の人の罪を背負って迫害され処刑され再び復活したことを喜ぶキリスト教の物語です。春の訪れと合わさって世界中でいろいろな物語に形を変えて浸透しています。いつの間にか復活祭の食べ物として卵に着色する習慣が定着しました。 卵から生まれるというイメージより 堅い殻を破る生命力に復活の意味を重ねたのでしょう。人は殻を破って生き返ることができるという象徴的なメッセージかなと思います。

そこで自分の物語に目を向けてみるといっぱい物語を作って生活していることに気がつきます。
 朝のゴミ出しにいって近所のおばさんと話をしている市井の私
 かばんに書類をつめてるキャリアな私
 孫を思いっきり甘やかして楽しんでるババ臭い私
   魚のはらわたを掻き出して夫より手を汚しているぞと悦にいる私 
    悲惨なニュースでいたたまれない気持ちをいつまでもひきずってしまう私
    大河ドラマの主人公を自分に重ねてしまう私 などなど
 
問題はそれぞれの物語りにこだわり続けると心身ともに頑なになって自分の物語から
離れられなくなるということでしょう。
 やっぱり全身満遍なく動かすラジオ体操や好き嫌いのない食習慣、乱読や新聞など自分の好みの物語と関係ないところから刺激を受けることは決して無駄では無いようです。新しい物語のヒントになるからでしょうか。理不尽な悲しい物語から復活する物語へ、浅い物語から深い物語へ、深い物語から浅く楽しい物語へといろいろな物語りを作り続けて一生を終わりたいものですね。
 ひとつの物語りの主人公にこだわって苦しくなるくらいなら別の物語りを
自分で作って乗りかえるのも意味があります。1回しかない人生です。
 

2017年4月17日月曜日

究極の女子会

 女子校のクラス会は究極の女子会ではないでしょうか
還暦を超えて集まるメンメンも一段と貫禄を増してきています。
 若いときのように相手の状況を窺いながらバチバチと学校時代の関係をひきずるということもなく単刀直入に聞き 単刀直入に答えています。
 A子「ご主人どうした?」
B子「別れたわよ。」
A子「あらゴメン  で今何してるの?。」
B子「今はね非常勤だけど会計事務所に勤めてるわ。
  私もいろいろ苦労したのよ。」
  それぞれの艱難辛苦を言外に感じ取りながら深入りもせず
かといって聴かぬふりもせず 空気を凍らせることもありません.
 欠席のハガキには 残念な気持ちと近況報告がいっぱい書かれて
ありました。
 海外ボランティアで活躍する人 地域の老人会を主催する人
まだ仕事している人 マンション組合の音頭をとることになった人
孫が7人 の人  自営を手伝う人   絵を描き続ける人 舞台に立つ人
 そして1番多かったのが家族の介護にあたる人
 究極の女子会はさまざまな人生がいっとき交錯した時間になりました。
 皆んなオトナになりました。教室でよく見られたお弁当友達の輪、
喧嘩、いじめ、大はしゃぎ、大笑い、ダンスや鬼ごっこは影をひそめ
静かに座っておしゃべりを楽しんでいます。
 ほどほどに忘れっぽくなっているのも幸いしているよう。いつまでも
学校時代の関係をひきづっていては直面している介護や仕事、
自分の健康に立ち向かえないですものね。


2017年4月10日月曜日

吉野天人が風邪ひく前に

赤坂迎賓館をのぞむ

四谷 清水谷公園

等々力不動の花祭り

等々力渓谷から多摩川へ

多摩川土手

2017年4月9日日曜日

孫一 囀る


これねえ これだけいっぱいお話しがあるんだよ
きょうはクワガタみないから・・・・・ねえ。
カブトムシの話でした。
こっちはみれる
だけどこっちはみえれないよ
またこんど クワガタみようかね。
「お話し終わりですか?」と果敢に絡むママの一言。
おわり
さっき読んだから
じゃあ、お話しはこれでおしまいにしようかねえ
また 明日  もっと見ようねえ。 
またこんどクワガタみようかな
じゃ 食べよ。
 孫一3歳 保育園でのお話しタイムを模倣して家族に話して聞かそう
という魂胆のようでした。

3歳の孫一はこの調子で朝起きた時から夜寝るまでしきりに言葉を発しています。
それはまるでコトリの囀りのようで ほとんど意味不明。
ときたま話を合わせることができますが大人のコントロールは不能
親や友達、保育園の先生、おじいちゃん、おばあちゃん、時たまお巡りさん
がお相手ではありますが、会話にはならず相手もわかったような不思議な
笑顔で応戦するしかありません。
 
 ときどき「get up! 」「help!!」という声も聞こえてきます。
英語のような発音も交じってただいま孫一の言語野は活火山の様相を
呈しています。

遊牧民の塩袋

私の遺伝子は1万年前の中央アジアのチエという女性までたどることができます。
イギリスの遺伝子研究所の世界的プロジェクトの結果でした。
 たばこと塩の博物館で開催された丸山コレクション(丸山繁 ギャラリーササーン代表)西アジア遊牧民の染織「塩袋と旅するじゅうたん」は私の遺伝子をくすぐりました。西アジアのバルーチ族・カシュガイ族・クルド族の伝統染織による塩袋とじゅうたんの紹介です。
遊牧民の塩袋は家畜が必要とする塩を入れる袋です。
家畜が袋に首を深く突っ込まないように口の部分が狭くなっています。塩袋もじゅうたんも今や伝統工芸品であり生活につかわれることはなくなりました。
2015年渋谷から移転 たばこと塩の博物館
遊牧民が生活をした西アジアの大地はいまや戦禍のただなかにあります。100年~数十年前までに制作されたのクルド人たちの作った絨毯は圧巻です。どれも何とも言えない赤を基調にしています。命の赤です。また自然界のさまざまな文物が文様となって織りこまれ遊牧民の誇りを今に伝えています。
 満天の星空の下遊牧民の家族がこの絨毯の上に身を寄せ合っている光景が浮かび上がってくるようです。
 自然の脅威にさらされる生活と情報や貨幣で動く社会の脅威にさらされる生活とを比べる術はもちあわせません。が自然に包まれる生活の豊かさをこの赤い絨毯と塩袋が教えてくれます。こうした遊牧民の知恵や手仕事そのものが生きた芸術であるように思えます。
博物館近く業平の桜とスカイツリー


 現代に生きる子孫たちに遊牧民の自由はありません。1万年前人類は大地では遊牧民、海にあればボートピープルだったのではありませんか。


『特定少数の支配層にとって都合のいい国家
でない国家はひとつも存在せず、つまり、
いかなる国家も私物化されているのであって、
国民はさまざまな形で隷属を強いられ、
ために、本来もっと自由で、もっと充実して
いるべきはずの人生が、あらゆる大義名分
によってふみにじられて、のべつコケに
されている』

       丸山健二「生きることは闘うことだ」2017年 朝日新書から抜粋

2017年4月8日土曜日

吉野天人

 今年の桜やいかに フラフラと 帰り道 浅草寺に寄りました。大川端の桜も満開
春の風も心地よく気持ちのいい昼下がりです。
境内を賑わす多言語  外国からの観光客に混じって仲見世通りを徘徊しました。
謡曲「吉野天人」は、桜の花の美しさにに天女が舞い降りて........という優雅な曲ですが
 街の桜では 天女も降りる隙間もありません.今ごろ天女は降りるところをさがして
あっちこっちしていることでしょうねえ.
浅草寺





2017年4月3日月曜日

ホワイトデーの贈り物


 子どもは世界中でどこでも同じように大人たちに見守られて育たつべきなのに
暖かい毛布一つ、スープ一杯に事欠き、頼るべき親や大人たちがいない。
そういう子供たちがたくさんいることにとても心が痛みます。この日本にいて
何かできることはないかしらと思い、NPO法人「国境なき子どもたち」の
マンスリーサポート 毎日50円寄付を始めました。この団体の活動の特徴は
スタッフがであった子どもたちが夢を見つけ自立できるよう生きの長いサポート
を行うというものです。
 例えばフィリピンのスラム街からNPOの自立支援施設「若者の家」に移り、
学校に通い大学で教員資格を目指す。
 寄付や支援の仕方はいろいろあります。ニュースレターで活動の様子を知ること
ができます。今回のようにバレンタインデーの寄付に対してホワイトデーにクレヨン
で描かれたレアな贈り物が届きました。これにはサポーターも参った!何歳の子かな
男の子かな女の子かなと好奇心が膨らみました。もっと応援しよう。と写真展を
見に行こう。とか講演会にいって話を聞いてみよう、もっとリアルに感じてみたい
という気持ちを掻き立てられます。
 身近な子どもたちを見守るように遠い国の子どもたちに近づく方法がありそうな
気がします。貧困や戦禍にさいなまれている国の子どもたち、悪意に満ちた大人
たちから逃れられない子供たちの成長の芽を育てることこそ本当の大人の闘いなの
ではないでしょうか。
 
バレンタインデーの寄付のお礼に送られてきた国境なき子どもの絵 Thank you!!

正太郎 小辰 ~春に舟~

 江戸の風を送りたい。という若手落語家二人の勉強会ツアー最終日を名古屋大須演芸場で楽しみました。送られてきた江戸の風は、子供の風景と正直者の幸せ。子供の風景は町中を駆け回るギャングエイジの子供たちです。見なくなって久しい風景のひとつです。正直者の幸せでは、士農工商の階級社会だった江戸で、廃品回収業を営む正直者がひょんなことから長屋住まいの武家の娘と侍の中を取り持つことになる妙。これも正直って何?の昨今 この話のように階級を超えて仲を取り持たれるなど平成娘にはなかなか考えられない出会い方です。
 小辰さんも正太郎さんも枕の話がとても今。若い二人の弥次喜多道中・四苦八苦ぶりから始まり、観客はいつの間にか江戸市中の長屋や風呂屋の前あたりにいることになりました。羽織をすっと後ろに引くのが合図です。
 私はこの瞬間をいつも面白く感じます。古典の落語と枕の話、江戸と平成をどうやってつなぐか落語家の苦労のしどころかと思って聴いてます。うまかった。
 小辰さんは江戸の子供も平成の子供も大人からみれば五月蠅いものだ。という感覚
正太郎さんは江戸も平成の時代も正直は幸せな出会いを導くというまっとうな感覚でつないでくれました。
 さすれば古典も生きるというもの。二人のこれからの活躍に期待してます。

演目
 湯屋番 春風亭正太郎
 転宅  入船亭小辰
  休憩
 鋳掛屋 入船亭小辰 
 井戸の茶碗  春風亭正太郎


~春に舟~ 春は春風亭、舟は入船亭から
   
  



 


バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...