2017年4月18日火曜日

復活の物語

ここのところ 本に恵まれています。先ごろ「人はなぜ物語をもとめるのか」
という本を読みました。著者は物語を多角的に研究し古今東西の物語を分析しその根源に
ある人間の性に取り組くまれています。
 『あなたは「物語る動物」です。』という第1章の目次が目を引きました。
最終章では宗教も物語りであるという立場をとって新鮮です。人は信頼をベースにした「渡る世間に鬼はなし」と不信をベースにした「人を見たらドロボウと思え」の間を行き来して
物語りを紡いでいる動物だというわけです。紡いだ自分の物語りにこだわりすぎることへの警鐘をならしています。この本は自分の生き方から逃れられず苦しんでいる人に向かって語りかけているようです。

ウクライナ・エッグ
さて復活祭は人が生まれ、他の人の罪を背負って迫害され処刑され再び復活したことを喜ぶキリスト教の物語です。春の訪れと合わさって世界中でいろいろな物語に形を変えて浸透しています。いつの間にか復活祭の食べ物として卵に着色する習慣が定着しました。 卵から生まれるというイメージより 堅い殻を破る生命力に復活の意味を重ねたのでしょう。人は殻を破って生き返ることができるという象徴的なメッセージかなと思います。

そこで自分の物語に目を向けてみるといっぱい物語を作って生活していることに気がつきます。
 朝のゴミ出しにいって近所のおばさんと話をしている市井の私
 かばんに書類をつめてるキャリアな私
 孫を思いっきり甘やかして楽しんでるババ臭い私
   魚のはらわたを掻き出して夫より手を汚しているぞと悦にいる私 
    悲惨なニュースでいたたまれない気持ちをいつまでもひきずってしまう私
    大河ドラマの主人公を自分に重ねてしまう私 などなど
 
問題はそれぞれの物語りにこだわり続けると心身ともに頑なになって自分の物語から
離れられなくなるということでしょう。
 やっぱり全身満遍なく動かすラジオ体操や好き嫌いのない食習慣、乱読や新聞など自分の好みの物語と関係ないところから刺激を受けることは決して無駄では無いようです。新しい物語のヒントになるからでしょうか。理不尽な悲しい物語から復活する物語へ、浅い物語から深い物語へ、深い物語から浅く楽しい物語へといろいろな物語りを作り続けて一生を終わりたいものですね。
 ひとつの物語りの主人公にこだわって苦しくなるくらいなら別の物語りを
自分で作って乗りかえるのも意味があります。1回しかない人生です。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...