2015年12月28日月曜日

いろいろお世話になりました。ハイ こんにちわ!


 今年も残り少なくなりました。「いろいろお世話になりました。ハイ こんにちわ」は2歳になる孫一の第1作ともいうべき童謡です。 部屋中にぬいぐるみの者どもを従えてしきりに挨拶遊びに興じる孫一。ハイのところを少々高めに発声すると自然な節回しが生まれます。思わず年の瀬の忙しさを忘れて孫一と一緒に口ずさんでしまいました。
 ここ数か月で孫一は絶え間なく何か言葉を発信するようになりました。ときどき親や家族の声掛けに答える言葉もありますがそれだけでなく身体?の中から湧いてくるようなぴちぴちした言葉が飛び回る孫一の背中から聞こえてきます。幼児には耳で聴く本来の言葉の音楽を発する力があるのでしょう。成長するにしたがって言葉の地図ができいずれ整然とした言葉を話すようになってしまうようで「いろいろお世話になりました。ハイこんにちわ」なんてぬいぐるみに頭を下げて楽しむなんて時期はほんの少ししか許されていないのかもしれません。おばあちゃんとしてはこうした遊びをコレクションしたくなります。
 ちょうどそんなとき周東美材氏「童謡の近代」(岩波現代全書)を読みました。北原白秋もまた「耳で聞く音の本来の音楽」を大切に考えていたことを知りました。童謡は幼少期に刷り込まれたから懐かしいというだけでないものがあるようです。「日本は幼児の言葉の世界を大切にする文化を育ててきている。」とその本の若い著者は言っています。童謡の世界は「カワイイ」につながる。「カワイイ」で繋がる人たちが国境を越えて世界中にいることを思うと童謡のように本来言葉の意味でなく「音」に「伝える」という力があることを思わずにいられません。確かに孫一と一緒に「いろいろお世話になりました。ハイ こんにちわ」と歌って遊んでいると「不思議の扉」の向こうとつながりそうな気がしてきます。扉の向こうには新しい物語が待っているはずです。
 今年は日本の内外でいろいろありました。メディアの力もあって大きく世界が変わっていく流れを身近に感じます。マスコミやインターネットに煽られてしまわないよう「見ざる。聞きざる。言わざる。」の処世術も大切ですがまだまだ現役の還暦世代、「見るサル。聞くサル。言うサル。」を身につけ考えるサルになり明るく幸せな物語を紡ぐ年にしたいものです。
 

2015年11月17日火曜日

文人墨客 今いずこ

我孫子 楚人冠の庭
手賀沼

 小春日和の秋の一日 我孫子の手賀沼周辺の文学散歩を楽しみました。神奈川近代文学館の柳田国男展に関連した企画に便乗しました。茨城県と千葉県の県境利根川の西に位置する我孫子市は この利根川と細長い手賀沼に挟まれています。 最初に利根川沿いにくだり橋を渡って徳満寺というお寺 この寺には間引き絵馬があります。貧困の歴史を物語り若き柳田国男が農政官僚をめざすきっかけになったといわれています。小林一茶がこの寺を49回にわたって訪れてもいます。小林一茶にとってもこの絵馬の供養は欠かせないものだったのではないかと思いながら境内の一茶句碑やお堂を見学しました。この寺の近くの小川家に身を寄せていた柳田は利根川の風物の記録を「利根川図志」として残した赤松宗旦という医師と親交がありました。
 手賀沼周辺には白樺派の志賀直哉、武者小路実篤、バーナードリーチ、滝井孝作 中勘助 が居を構えていました。
それらの人たちを引き寄せた人がジャーナリストの杉村楚人冠や講道館創始者の喜納治五郎でした。手賀沼は大正・昭和の北の鎌倉、別荘地だったのです。手賀沼は護岸工事がされ岸辺の公園も整備されていますが当時は葦が多い、ヨシキリがとび その合間を往来の舟が行き交うのどかな風景が展開していたことでしょう。
 文学散歩に参加した中高年のおばさん、おじさんにとっては懐かしい小説の世界の背景を知るよい機会になりました。が生活を知り尽くしたおじさん、おばさんはここでの民俗学者、小説家、画家、の生活は農民や庶民とかけ離れ格差を感じずにいられません。とはいえ彼らの文化を担っているという意気をその生活のこだわりやスタイルに見ることもできました。
 柳田国男生誕140年 方言や祭り、年中行事や奇祭などを収集し記録しの根底にある人々の営みを明らかにしようという意欲は日本らしさを考えるとき不可欠なものになるでしょう。
 世界では頻発するテロ、流出する難民、干ばつによる死者 日本でも格差の問題が人々の生活を圧迫してきています。
貧困の問題を考えることを官僚だけでなくみんなが考えなければならないように思います。文武両道・文人墨客などといわれる人たちのように幅広い知識と教養、社会をよくするんだ精神に燃える政治家や官僚が見えなくなってきている現代
それに代わるのは一般peopleしかいないのではないでしょうか。そんなことを感じさせる文学散歩でした。



                        

2015年9月28日月曜日

ちょっと!安倍さん


  秋祭りたけなわ 近くの神社の祭りに夜くりだしました。屋台も食べものばかりでなく的あてや金魚すくいの店も豊富でなかなか面白い。神楽やパントマイムも披露されていました。定番お好み焼きとたこ焼きをつつきながら神社境内の賑わいに身を任せつつ群れる子供達に目を奪われました。 こんなに子供がいたっけ。この神社のある地域では職住接近の都市開発の成果が上がって確かに子供をもつ世帯も増えてきているという話も聞きます。商店街でみかけた神輿も気合が入っている感じでした。景気をつけたい空気まんまんというところですが境内を離れて裏道に抜けると寂しさ倍増。昔も今も変わりません。
 秋祭りに燃える商店街と「安保法案反対」に燃える国会議事堂前のデモ どちらも大きな庶民の熱気ではありますが 安倍さんはこの熱気どのくらい受け止められたのでしょうか。今回の安保法案に関連した参議院の国会中継を見ていましたが見れば見るほど日本の縮図をみているようでした。特に細部の詰めるべきところの質問をすることなく手続きが悪い、態度が悪いと襲いかかる野党とこれ幸いとばかりに同じ説明を繰り返し説明の仕方を変えて説明することをせず説明責任を果たした気でいる与党。どっちもどっちではないでしょうか。
 結局 自衛隊員が外国でやるべきことは広がる可能性ができたものの命の代償についての議論は聞けませんでした。武器製造企業や軍事研究が庶民の知らないところで羽根を伸ばしているのではないかと思わざるを得ません。
  70年安保世代としては国会の様子に幻滅です。自分の身は自分で守らなくてはと思いました。
弱い子供や老人を抱えた還暦世代には痛い結果となりました。安倍さんに代表される世代は詰めることに甘くぬくぬくと自分のテリトリーの中で生きてきてしまった感じがします。せめて若い人たちが自分で自分の将来を決め決めたことに責任が持てるよう励まし応援しようと思いますよ。安倍さん!!「詰めてないと気づいたら詰めましょうよ。先手必勝です。」
 
 
 
 

2015年9月8日火曜日

孫一 近況


 9月は8月の猛烈な暑さを一掃してしまうような雨模様で始まりました。 ブログの夏休みも終わりました。終戦70年ということもあり暑く深くずっしりした夏を過ごした感じがします。この夏の体験がふつふつしてきたらこのブログに書いてみようと思います。
 おばあちゃんの夏の思いとは裏腹に孫一は朝顔の芽が伸びるがごとく日に日に成長をとげています。発展途上とはかくもエネルギッシュなものなのです。6月ごろアーウーといっていた孫一は 「マミー・ダディ―・ジジ・ババ」をはっきり言うようになっただけでなくちゃんと役割を理解しています。叔母さんや仲良しは一括して「ピーちゃん」 孫一なりのネーミングに周囲は茫然。
 8月のお盆過ぎぐらいから2語になり 起床第一声「バナナ・ヨーグルト たべる」にまでなりました。親の会話は英語、保育園と家族間は日本語の環境では英語より日本語が出やすいようですが・・英語も聞き分けているようです。「ティンクル・ティンクル・リトルスター」は英語、「ちょうちょ」は日本語で歌います。マイブームは もちろんアンパンマン バイキンマンもお気に入りのようで小さな指をたてて角の真似をして友達に迫ってゆきます。保育園の日誌には 飛び跳ねる孫一の姿が
つづられ仕事でへとへとの若い親は癒されてますねえ。保母さんに感謝です。
 写真はそんな孫一のおばあちゃん泣かせの一枚。孫一は 「ぼくの」という意味の「 ・・・の」
が使えるようになりました。 「孫一くんのゴリラ」と動物園のイケメンゴリラに大声でさけびます。
その孫一がおばあちゃんと別れ際に「バイバイ」に答えずそっぽを向きました。さびしく別れる
おばあちゃん その後ママがおばあちゃんに送ってくれた写真です。「ぼくのおばあちゃん」
って意味かな。私のサンダルの両端に自分の脱いだ靴を並べてみたそうです。ホロリ


2015年6月22日月曜日

お父さん ありがとう 

2013年2月に亡くなられた市川團十郎さんと娘の市川ぼたんさんとのビデオ日記で構成された番組を見ました。私の母が亡くなったのが3月ちょうど團十郎さんの一か月後、ビデオにもあった雪の日の病院にシーンに思わず自分を重ねてしまいました。 團十郎さんが急性骨髄性白血病で舞台を降板されてから9年その間 外郎売での復活、パリ公演と何度か舞台復帰のニュースを耳にしその姿に元気をもらっていました。 2012年12月には中村勘三郎さんの急死その大きなニュースに耳目を奪われている間に團十郎さんの病はすでに取り返しのつかない状況に陥っていたことがわかりました。しかし12月28日にはビデオを映す家族に元気にこたえられている姿が印象に残ります。
成田屋 かまわぬ!
娘のぼたんさんは 父親の闘病生活をビデオ日誌で綴ることで父との時間を記憶にとどめようとされ父もそれに最後までこたえられていたことに強い親子 家族の絆を感じました。梨園の市川家もまた普通の日本の家族なのだと思います。今更ながら親しみを覚えます。
 娘のぼたんさんは 日本舞踊市川流の家元でご自分もまた芸事の道を歩まれています。それだけに父との時間、父の思いを表現したいという気持ちは人一倍にお持ちなのでしょう。だからこの番組も成立したのではないかと思います。それと若さです。自分の内面からほとばしるものが最良の表現で人の気持ちを動かさないわけにはいきません。
 團十郎さんが「役者は 意地と張りが命だ」といって家族の反対を押し切りパリでの公演を実現させたクダリは胸をつかれました。正月を過ぎてからのビデオにはすでにむくみがひどくなった手が写され重なる娘さんの手が痛々しく見ていられなくなりました。が あとからその手を思い出すと團十郎さんの弁慶が飛び六法で花道を引き下がるシーンと重なります。あの弁慶の姿は団十郎さんでなければなりません。享年67歳 死の床にあっても生きる思いに貫かれていたのだと思いました。ベッドサイドの点滴チューブが外されるタイミングは難しいです。手厚い医療の悪戦苦闘の戦場だったことが想像されます。こころ静かに死を迎え ひっそりととも思いますが荒々しく猛々しく死に向かう後ろ姿を家族や観客に見せる役割を果たされたように思えてなりません。
 私のこの投稿は3か月ぶりになります。4月から新しい仕事も始まり生活が一変してしまいました。60代 まだまだいろいろなことがあるでしょう。くじけそうになったらこの番組を思い出して与えられた役割を全うできるよう心掛けたいと思いました。
 そういえば 我が家にも「父」の役割を果たす方がおられます。「父」の役割を楽しく果たせるよう
ささえましょう と「妻」らしく思いました。これが私の父の日のプレゼント!!
 

2015年3月25日水曜日

海界(うなさか) を過ぎて漕ぎ行くに・・

2008年香美市立美術館大坪美穂展リーフレットから
    知人に紹介された大坪美穂さんの海界 (うなさか)という個展を六本木ストライプハウスのギャラリーに見に行きました。ポストカードの写真の作品は黒く染められタグがつけられた衣類を着せた椅子が整然と並べられたものです。入り口入ってすぐ目に入りました。写真は作品の一面にしかすぎませんからこうして作品を前にしたときに感じることって大切だといつも思います。写真の硬質なイメージと違い衣類の柔らかい形や布の材質が黒一色に染めきらないニュアンスのある空間を作って饒舌です。饒舌ですが沈黙の重さのような空気が漂っています。在廊されていた大坪さんからアウシュビッツをイメージされているとお話を伺い'やっぱり!'と作家さんに共感を覚えました。布つながりで目を移すと2階にわかれた空間に2つの布玉のインスタレーションがあります。階下の作品は大小の布玉が中央に集められ周囲を大きなシルクスクリーンの作品が囲んでいます。吹き抜けの一階の作品は山積みの白い布玉から'こより'でできたネットが天井に向かって広がっています。私はこういう作品をみるときはできるだけ自分の位置を変えて見ます。見上げるよう作品は上から見れるよう配慮されていると嬉しいものです。インスタレーションは見る側に冒険を迫ってくるので楽しいです。
    大坪さんはさりげなく布玉を作り始めるきっかけになった事件を話してくださいました。「長年支えてくださったお母様の死とアイルランドのヌーラニ ノゴールの詩との出会いがで母の衣類を裂き黒く染めて布玉に変えその時の海界を越えられた」。私自身の体験にもつながるお話です。母親という存在は「つながり」ということを生理的に伝える存在なのかもしれません。大坪さんの近年の作品づくりは布玉をいろいろな人達を巻き込んで作りつながりをイメージするこよりのネットとつなぐということです。招かれる地域で集まった人達を巻き込ん作品づくりをするということが今のテーマになっていると話されました。布玉もネットの広がりもその作品全体のイメージもそのときどきで変わって行くのでしょう。何か大きな船が大海原にこぎ出してゆくのを見送ったような気持ちでギャラリーを後にしました。

2008年香美市立美術館大坪美穂展リーフレットから

  

2015年3月22日日曜日

地獄八景亡者戯


  桂米朝さんが亡くなりました。これから落語を楽しもうという私には寂しいかぎりです。知っている噺家たちの元気な頃は演芸場に足を運ぶ暇もなくやっと時間ができてきたなと思うことになると次々に鬼籍に入ってゆかれます。「地獄八景亡者戯れ」はNHKの朝の連続ドラマの「ちりとてちん」の渡恒彦演じる師匠の十八番で地獄めぐりをする大旦那の一行を面白ろおかしく語っています。そのストーリーが面白かったので米朝の弟子の枝雀の紙一重的落語でこの噺を聞いたことがあります。これがめっぽう面白かったです。死ぬことにハードルが無くなってしまう錯覚に襲われました。そしてこの古典的な噺を復活させた元締め米朝さんのご供養にと思って昨夜米朝さんの「地獄八景亡者戯れ」を YOU TUBEで楽しみました。11万回アクセスされています。私と同じような気持ちで聴いている方が多かったのでないかと思います。
 この噺 真面目に聴くときわめて不謹慎な噺です。三途の川で死因を聞かれ鬼がそれに値段をつけるというくだりなど病気を抱えていると身につまされてしまいますが、ここは落語大きな心で聞かなくては。米朝さんは当時の病気の数々を取り上げ鬼に勝手に値段をつけさせます。たとえば「肺がん なんぼ 腎臓病はおしっこの病気でんな なら なんぼ」ってな具合です。これが落語じゃなかったら????
 この噺なんと約1時間の長丁場 噺家の体力も試されます。米朝さんもマクラで最後まで自分もいけるか心配だといってみんなを笑わせていました。この噺のように地獄の沙汰も金次第という世相を笑い飛ばす精神はもっと見習ってもいいものと思わされます。

 箸が転んでもおかしかった10代の頃からだいぶ月日がたち身の回りに「笑い」の種が少なくなってしまったように思うこともしばしば 私の小さい頃にはよくラジオから落語が聞こえてきていましたから。テレビの漫才やドラマも落語ネタが多かったように思います。小学校の謝恩会の一人一芸で
私は「寿限無」をやりました。いまだに「寿限無」のくだりは覚えています。友達の一人は「よいとまけ」を歌っていました。戦後20年くらいはそんな時代でした。今戦後70年になろうとしています。
「笑って元気になろう」みたいな風潮も影を潜めてしまっているように思えて寂しいです。
 
 最近は女性の落語家もちらほら目にとまるようになってきましたが話芸は男性社会の義理人情や生活をテーマにしていることが多い点世の中高年男性の楽しみに打ってつけではないかと思います。会社や組織でガチガチになってしまった思考パターンを崩すには女の愛嬌も効果的ですが
話芸で気分転換を果たすのも一策かと思います。演芸場やTVで落語を聞いていると同じところでみんなが笑う一体感は気持ち良いものです。笑いの質も高いような気がします。お腹の底から笑っている声に聞こえます。笑い方も人それぞれですがやっぱりお腹から笑える人は幸せなような気がします。落語の世界は普段の生活の世界です。普段自分たちの生活で感じていることを言葉にしてくれるありがたさがあります。落語が絶滅危惧種と自虐に陥らず生き残っていってほしいと思ってます。

 米朝さんの一番弟子のざこばさんが「上手に死ぬというのはこんなにきれいなもんなんか」と
米朝さんの最後をテレビのインタビューに答えて涙を詰まらせて話されていたのが心に残りました。私も人間国宝にならなくてもいいのでそうありたいと思います。
 米朝さんのご冥福をお祈りします。

 

仰げば尊し

仰いでミモザ
卒業式のシーズンになりました。自分の最後の卒業式からはもう40年になってしまいます。小学校のときの卒業式は印象に残っています。極度の緊張感と何か乗り越えた感の複雑な達成感に包まれたことを50年たって思いだします。その緊張感は小さいながら大人になる試金石のように思えました。名前を呼ばれて舞台にたって校長さんから卒業証書を押し戴くというパーフォーマンス 見守る親も階段で躓かないかちゃんと礼ができるかハラハラドキドキの一瞬です。

 今子供が育つ学校の環境は変わりつつあり式典も簡素化する方向にあると聞いています。忙しい親が増えたことも一因にあるでしょう。小学校の卒業式は親にとっても親業のひとつのけじめになるはずです。共働きだった我が家では年度末の仕事でそれでなくても親は気持ちに余裕がなくなります。子供達の卒業式・入学式が重なった年にはおじいちゃん、おばあちゃんも動員して大騒ぎとなりました。今思えば楽しい思い出ですが私は出費は重なるわ、仕事はたまるわで必ず極度の腰痛に見舞われました。そういうこともあって腰痛は最近の知見に先んじて心身のストレスからくるものといういうのが私の持論になっていました。もともとの呑気な性格が幸いして3,4月の春の空気も私の落ち込みそうな気持を支えてくれなんとか乗り越えさせてくれました。なんとかなるものだなあとこの季節になると思います。助けられながら、私自身は無理してみんなと同じように卒業式・入学式に参加できました。今となれば自信になっているのでしょうね。外で仕事をしている母親も父親も卒業式に一緒に参加し子供の成長の喜びを共有できる家族・社会になってほしいと思います。

 とはいうものの成長を喜びあう形はそれぞれです。学校は学校のスタイル、家族は家族のスタイル、自分は自分で卒業を祝えばいいわけです。卒業は何かを達成した証しにすぎません。人生にはいろいろなところに卒業に似た体験があり卒業式に相当するものが用意されています。小学校の卒業式は自分が意識できる最初の体験です。その前に日本では七五三があります。こんなに成長の節目ごとになんだかんだ祝い会う文化も今は昔になってしまうのでしょうか。お祝いの恩恵に預かる人とそうでない人が今まで以上に入り混じって生活してゆくのがこれからの日本の社会のように思います。

 ふと「仰げば尊し」の歌を涙して歌ったときの気持ちを思い出す機会があり青春のさわやかだった頃の自分に出合うことができました。少なくとも私はそうだったと勝手に思えるまでに成長できたことがなんか嬉しい日和になりました。


 
 
 

2015年3月10日火曜日

死の淵 あれから4年

死の淵をみた男

 死の淵をみた男は福島原子力発電所 所長吉田昌郎氏のことです。「人の上にたつ」という言葉について考えさせる一冊を読みました。この本はそのとき現場で何が起こっていたかを少しでもあきらかにしたいというジャーナリスト門田隆将氏の思いの結晶ですが同時にあの津波に襲われた原子力発電所の中の出来事を教えてほしいという読者の期待に応えるものでもありました。副題は吉田昌郎と福島第一原子力発電所の500日です。
gigazineサイトから 2011年3月20日 
エアフォートサービスによる空中写真
 当時の官邸、東電、保安院の「上にたつ人」から現場の防災職員・事務職員・その家族といろいろな人に取材し、いい悪いの物差しをあてずそれぞれの立場でなされたことを伝えています。原子力発電所の事態収拾では、情報不足・伝達不足・知識不足・曲解・思い込み・独善と人々が自分の弱さをさらけだして局面を乗り切ろうとした極限の姿が浮かび胸を打ちます。 自然災害では不信・猜疑心すら入り込む隙のないほど突然に猛スピードで襲ってくる脅威なのだと痛感します。 その渦中では自分の判断に迷っている時間は許されません。日頃「人のうえにたって」働いている人はその時さらに多くの人の命を左右する立場にたたされていることを思い知らされその重圧を感じないわけにはいきません。なのに少ない情報、情報の真意さえわからない状況と限られた時間の中で判断・決断をしなければならない。その是非をまた保身に走る姿をだれが評価することができるのだろうかというのがこの著者の読者へのメッセージでしょう。現場の想像を絶する状況に想像力が追いつかないマスコミや人々の安易な非難に対する著者の無言の楔のような本です。年月がたつほどに意味を持つ内容のように思います。
 自然災害時では「人の上にたつ」困難さだけでなく「人の先頭にたつ」ということも同じくらいに困難なことではないかと思います。災害の現場ではだれもが先頭に立ちうることをあの震災が教えてくれています。 人前に出るのは苦手、旗振りはできない。向いていない、男の仕事だなど呑気なことは言ってられません。地震が多い東京では震災グッズをそろえたり地震に備えて住宅を補強したり、避難訓練に参加したり地域の防災訓練に参加したりと被災したときの準備をしようと思えばできる環境が整ってきています。がだれもが先頭に立てる経験をして備えることは災害訓練だけではないと思います。日々の生活の中でも他人に依存しない。自分で考えて行動する。少ない情報でも落ち着いて吟味して判断するというような経験をすることが一人でも多くの人が生き残る手立てになるのではないかと思いました。


 
 

2015年3月2日月曜日

南無阿弥陀仏

寒緋桜(カンヒザクラ)
親戚の法要にでかけました。 春雨の一日でしたが親戚30人ほどが集まり7回忌・23回忌・33回忌のトリプル供養をいたしました。親戚の家は昔からの農家で2つの分家があります。分家とは江戸時代からのお付き合いとか。本家には近頃珍しく敷地内に先祖代々の墓があり防空壕もあります。法要のあとみんなでお墓にお参りし会食となりました。 私の母の実家になりますが母は7人兄弟の末っ子私は従兄妹のなかでも末席に連なります。お気楽な立場ですっかり楽しんでしまいました。従兄妹の年長は80歳です。母の世代はどこも兄弟が多く親戚もたくさんですが次の世代の子供の数は半減しています。こうした集まりもしだいに少なくなっていくのでしょうか。私たちの世代になると子供の数は 3人いれば多い方独身の方も増えてきます。3回忌、7回忌などの行事も家族だけで行うことが増え、親戚一同が会することもなくなってしまうのかとさみしい気持ちになってしまいます。親戚づきあいより友人づきあいに花咲く昨今これもしかたがないかと思いますがまだまだ血のつながりが感じられるうちはこのお付き合いを大事にしようと思いました。今のところみんな私があまりに母に似ているので驚いてくれてます。
昔のように隣近所が助け合って農作業を行うこともなくなりました。私たちの世代の人たちは親の残したものを守りながらサラリーマン生活をしています。それぞれ介護や健康のこと財産のことなど悩みはつきませんが楽しく真摯に生活しています。どうも各種地域の行事がある中で一番のイベントは夏のバーべキュウらしいです。私お誘いいただけることになりました。また防空壕をワインセラーにしようという企みも進行中のようで こちらも楽しみ。
 親戚づきあいもその世代に合わせた工夫をすれば昔そうであったようにひとつの拠り所になるはずです。私の仕事柄「地域」という言葉をよく使いますが「地域」は隣近所だけではないことを実感しました。ほどよい距離を保っていきましょう。お互い助け合うとき信頼の基盤くらいは持っていたいと思いました。もうひとつの拾い物は本家は「浄土真宗」だということがわかった事です。若い背の高いお坊さんの講和はとてもわかりやすく「心の目を開かなければ深海魚の目と同じだ」というお話 その心は「深海魚のように光が届かないと目が退化してしまうから光を受けられるよう願いましょう」「浄土真宗はめざめの宗派」で自我に目覚めるのではなく目覚めさせていただくということが本質です。」ということでした。私はキリスト教ですが「いいお話でした」と感想をもらすと分家のおじさんがキリスト教も親鸞率いる浄土真宗も共通項は「迫害」 だねということで盛り上がりました。
 なるほど このお互いの共通項を見出すことがこうした集まりには大事なことです。おじさん ナイス!
こちら 法然の浄土宗の九品仏境内


2015年2月27日金曜日

恐るべき子供達


黄色のフリージア 花言葉は無邪気
一人の少年の死が今日本社会、マスコミを大きく揺さぶっているように思います。大人たちが知らないところで思春期の子供達が傷ついています。自分の事でいっぱい、いっぱいの思秋期の私たち大人、虚を突かれたと思う大人もいれば責任の所在を巡って他人事にしてしまう大人もいます。受け止め方は人それそれですが一人の少年は河川敷で裸にされて死んでしまいました。やりきれない事実です。それだけでも十分なのにTVのニュースは頻回に事件の残虐性となりゆきをことこまかに報道しています。目をまん丸くして冷静さを装うキャスターやコメンテーター、ヒステリックに聞こえるトーンの高い女性アナウサーの声に思わずTVのスイッチを切ってしまいます。視聴者が果たして望んでいることなのであろうかと???

 昔見た一つの名画座でみた映画を思い出しました。ジャン・コクトーの「恐るべき子供達」です。この映画は1950年にジャン・ピエール・メルヴィルによって映画化されました。日本では1980年代に萩尾望都の漫画で再ブレークしました。シュールなコクトー 1929年の作品で二人の姉弟の関係が一人の美しい少年の出現で崩壊してゆく物語です。思春期の危うさや残虐な行為に自分の運命を受け入れてゆく悲劇で救いはありません。コクトーはこのときアヘン中毒の治療のため入院していました。その療養生活の中で描かれた物語です。物語は大人にならない子供達の閉鎖的な空間の出来事です。大人になることを拒んでいる。または大人になるきっかけを逃しつかめない子供達、子供の世界は純粋で無邪気にみえますが許しのない攻撃性と貪欲さをはらんでいます。この事件の少年たちの間に起こった出来事にこの映画のテーマに似た心のダイナミックスを感じました。

 大人になるきっかけはなんでしょうか。閉鎖的で密度の濃い人間関係から奥深くお互い心を開いた人間関係をつくり成長を続けるきっかけやチャンスは誰にもあるように思います。どうにもならない自分の気持ちをコントロールするためには何が必要なのでしょうか。 思春期も思秋期も共通しているのは季節の変わり目に立たされ孤独感と向き合う時間をもつことではないかと思います。若年ながらも孤独と真摯に向き合えればきっと力強い青年に育ちます。親兄弟友人との死別・離別でなくても生活の時間や空間の使い方でいやでも愛着のあるものから離れなければならない。そういう体験に上手に取り組ませ、注意力を養い危機を避けられる力をつける責任が若い親や家族・社会にはあるように思います。
 そして日々流れるマスメディアの責任 清濁入り混じった情報や殺人・犯罪の容赦のないTVや映画・漫画・ゲームの残酷場面の氾濫を子供の目線で考えてみてはどうだろうか。「子供は大人の鏡です。」 この少年の死が思い出させてくれました。ご冥福を祈ります。


 

2015年2月26日木曜日

プラント・ハンター バンクスの花譜集

絵葉書 バンクシア・セラルータ

友達と渋谷のbunkamuraザ・ミュージアムに行きました。バンクス花譜集の展示をみるためです。ジョゼフ・バンクスは 18世紀イギリスのアマチュア・ジェントルマンでキャプテン・クックの第1回航海に同行しオーストラリア・ニュージ-ランド・ポリネシアのさまざまな文物を採集しました。彼に雇われたシドニー・パーキンソンという博物画家が植物だけでなく風景、土地の人たちや生活など沢山のドローイングに取組みました。バンクスは帰国後それらを銅版画にしようとしました。彫版まで進んだところで彼の死とともに計画は頓挫。印刷に至らず大英博物館に収められたままになっていました。1980年100部限定で印刷された。というストーリーとともに120点の精緻な銅版画と珍しい植物の姿を楽しみました。マメ科やイネ科の植物は日本でもその似姿をみることができます。耳馴れないラテン名ばかりなのでどれと思いだせませんが美しい形は印象に残りました。多色刷りの美しい色彩には統一感がありますが当時採集したものは南方の光を受けて鮮やかでみずみずしく多様な色彩を放っていたことでしょう。
 200年前 キャプテン・クックは未開をめざし科学者を同行させて航海にでました。今 未開といわれるところは地理上にはないでしょう。宇宙から地球全体がくまなく見えてしまう時代です。残るは海の底と人間の脳の中くらいでしょうか。現代のキャプテン・クックはどこにいるのかな。バンクスやパーキンソンは? 14世紀から続いた大航海時代の富があればこそのキャプテン・クックの大冒険でした。が大航海がもたらしたものは富だけではなかったようです。お金の使い方がご立派!冒険は資金があるから達成できるというものでもなくそこには好奇心・執拗なこだわり・野心・ポジティブシンキング満々の人たちが集まってこその熱き想いがあるようです。初めてみたものを描く緊張感が展示された作品から伝わってきます。写真のように見たものを余すところなく写すのだという使命感も感じます。ところで当時クック船長たち西洋の人たちが未開と呼んだ社会・文化にも冒険心・野心・好奇心に満ちた人たちがいたことでしょう。未開は西洋人にとっての未開です。飛び道具や科学の知識は西洋と異なって当然です。西洋と環境が違うところで育つ植物も違って当たり前です。私も博物学は好きですが博物学の領域を超えて知らない相手を未開としてしまったことに西洋の驕りを感じずにはいられません。博物学がなかったら西洋の自然科学の発展もなかったでしょう。でもその代償は他民族の文化や経験を弱体化させ追い詰め西洋人の未踏の自然に西洋人がこぞって踏み込む結果となりました。写実を追及した絵には画家の思惑とは別の誘惑と毒もあるように思います。
雑誌National geography に紹介されたオーストラリアの古代壁画から
精緻な多色刷り銅版画の植物が見せる自然へのこだわりとアボリジニやマオリ族の日用品のおおらかな文様が見せる自然。どちらもありと思います。西洋の人にはアボリジニやマオリの人たちの描くおおらかな線は描けなかったことでしょうし,アボリジニやマオリの人たちもまた西洋人のようには自然の形はとらえないでしょう。それでいいのになぜか風は西から吹いてしまいます。
 
  

2015年2月25日水曜日

孫一君 鉄人28号からアトムへ

鉄人 鉄人 28号 じゃじゃ~ん 

10ヶ月の孫一 8月の暑さに比べればまだまですが暑い残暑もなんのその孫一は汗疹になやまされることなく保育園のプール遊びに没頭する日を過ごしました。9月のはじめには手に触れるものはなんでも投げ飛ばす芸当をするようになりました。唯一投げ飛ばされなかったのはバナナとビスケット それにオッパイです。最初はしっかり握り口に運ぶ快感を覚えたようでしたが、今は腕を振って指からものが離れる快感を愉しむ日々です。
 そういえば笛を吹くと音がすることも覚えました。日々進化を遂げる毎日 保育園から帰って寝付くまでの僅かな時間にもかかわらず家族にもたらす笑いと涙は抜群の威力です。鉄人28号を彷彿とさせますが移動は機関車トーマスですよ。28号のように頭が小さくありませんまだ4頭身?ですよ。手足も交互に動きません。手をあげるときは両手同時 手をむすんでいることが多いのと腹の感じが28号みたい。もちろん家族の中の存在感は小さいくせに鉄人28号なみ




空~をこ~えて~ ラララ 

 年明けて2月 天然パーマの孫一君もすでに1歳3か月 鉄人28号からアトムにパワーアップ 自分で考えて動くようになりました。たとえ思いっきりパンをほうばって苦しそうにしていてもお婆ちゃんには考えているように見えます。なんて言ってもスカイプで私の顔がわかるのですからすごい成長です。近頃は小さな箱を椅子にして使うようになりました。空の牛乳パックを意味ありげに並べます。音に合わせて体をゆらし最後に奇声で気勢を上げたりします。ねんね~ ねんね~といってかってに寝ます。ママとおばあさんのおっぱいをくらべてニヤっとします。もちろんお気に入りの絵本もできました。片言ですがワムワムがちゃんとしたあいうえおに聞こえるようになってきました。親の話す英語にもそれなりに応えて笑顔を見せるので何かは伝わっているのでしょう。気に入らないと大声で泣くことを覚えました。さあこれからが「しつけ」の出番ですねえ。やさしくて力持ちでスマートな男の子になるよう応援しましょう。ジャイアンにならないようにね。
  

2015年2月24日火曜日

さらば 八十助 また来て四角

坂東三津五郎さんのご冥福をお祈りします。
 NHK鞍馬天狗(1969) 私も花の中学生!坂東三津五郎さんは八十助として初のTV出、演高橋英樹演じる鞍馬天狗の小さな友達?として越後獅子の杉作少年役でした。

 昨年に引き続き歌舞伎界を担う私と同世代の役者さんがまた一人三途の川を渡っていきました。団十郎・勘三郎・三津五郎がそろえば・・・舞踊だったら三社祭 世話物だったら三人吉三 古典だったら熊谷陣屋あたりをみてみたいですね。 ともかくあちらはさらに賑やかになったことでしょう。何か天の意図でもあるのでしょうか。晩年の芝居道楽を楽しみにしている私としては寂しいかぎりです。道楽できるようになったころには同じ年頃の役者さんがいなくなってしまうのではと思います。年齢が近いと自分たちの代表選手のような気がして知らず知らず贔屓になってしまっています。歌舞伎の役者さんはその姿・形・声が鍛えられてご自分の持ち味がはっきりしてくるので一回でも見る機会があると強く印象に残るものです。私も八十助さん・三津五郎さんの折り目正しいたたずまいが目にさわやかに残っています。普通にあって楽しくお話ししたくなる人柄が感じられる役者さんの一人です。芸術家もいろいろですが 普通がいい。普通って何?といわれると説明に困りますがここでは「広く一般に通じる」という広辞苑の意味にしておきましょう。好みや価値観が多様になればなるほどなんでもありなので「一般」が示すものも一言で説明するのはむずかしくなります。むかしは一億総中流なんて言葉もありましたけど 今は違います。
 この年齢になると「一般に通じさせる」難しさが痛いほどわかるようになってしまうものですね。三津五郎さん59歳 芸道道半ば精進・精進と言いながらきっと三途の川を渡っていかれたように思います。子はその姿を思いだして成長するしかありません。嘆いている暇はないはず。さて親は子の背中で老いてゆくのも人生、子に背中を見せて消えるのも人生 どちらも春の景色でござんす。三津五郎さん またあちらで楽しませてくださいね。

2015年2月22日日曜日

人生いろいろ お雛もいろいろ

二木屋のひな祭りで見つけたお雛様
こんな姿の夫婦は近頃珍しいのでは?
お雛祭りのお菓子や桃の花が店頭に並び始めました。我が家も雛壇を無事にだすことができてほっとしています。長女が生まれてからの30数年 毎年のように雛壇を出してきました。2月の寒い時期にぶーぶー言ってきました。 雛壇を贈ってくれた両親の有り余る愛に辟易しながら2月半ばの年度末忙しい時期の貴重な一日をひな人形と過ごしてきました。娘たちも成長すれば「きれいね」の一言だけ手伝うこともなく なんどもくじけそうになりながらも大きな荷ほどきをしてきました。
 
我が家のに雛人形の製作者の母が倒れ病院から看取り覚悟で戻ってきた年の2月はほんとに意地で枕元に雛壇を飾らせてもらいました。たぶん病床の母にはいい迷惑だったと思います。「こんなときに雛壇どこらじゃないだろう?まったく気が利かないねえ」と「母の声が聞こえてくるような気がしました。 

雛は江戸時代の大奥女中がお城を下がって広めた遊びのようですが お澄まし顔ばかりではありません。昔から日本の女性や母親はお雛様に夢を託してきたように思います。雛壇には内裏雛・稚児・三人官女・お囃子・随臣・衛士といった顔触れが並びますがこの年齢になってみると
社会の縮図のように見えます。今も昔も変わらぬヒエラルキー。雛壇が会社のように見えて来てしまいます。それぞれのお顔に哀愁を感じるのは私だけかしら 

そしてみんなお雛様になりたい 目指せ雲上人!






2015年2月21日土曜日

徳之島巡礼

徳之島 むしろ瀬
今年は巡礼で始まりました。巡礼したくなるお年頃なのかもしれません。徳之島・奄美大島・加計呂島の3島に点在するカトリックの教会を尋ね祈るという旅です。普段困ったときの神頼みのお祈りしか知らない私ですがなぜか巡礼の誘いに乗りました。徳之島出身の神父様をリーダーによく気の利く元気印の添乗員さんの総勢16人の3泊4日の旅です。おそらく平均年齢は60代後半というところでしょうか。神父様をのぞきすべて女性という傍から見たら不思議な集団になりました。
 巡礼には人それぞれの思いがあると思いますが昔の家庭の主婦が家事から解放される大義名分になることもわかるような気がします。私は旅はあまりしません。徘徊は好きですが 旅となると・・・
徳之島 ソテツトンネル
昔の日本の女性はよく旅をしたと聞きます。その旅が巡礼だったかどうか調べてみる価値はありそうです。家庭や職場から解放される時間はとても貴重なものですが自分で計画をすると計画通りに旅することばかりに気持ちが働いて肝心の新しい発見や交流など旅ならではの経験ができないまま終わってしまいます。今回の巡礼は10近い教会を回りましたが心地よい疲労感と印象を残すことができました。「祈る」時間の意味を考えることができたのがよかったのでしょう。「祈り」は確かに妻・母・社会人・日本人などの役割から解放して一人の人間に立ち返らせてくれます。おりしもイスラム国の脅威が日本人にもおよびそのニュースが舞い込んできたところでした。殉教に対するのは迫害ですが殉教ジハードを叫ぶかれらの迫害とは何をさしているのでしょうか。答えの出ぬまま問い続けなければならないように思います。今年一年の過ごし方にかかわる事件に遭遇した巡礼の旅になりました。


徳之島 母間教会内部

徳之島 面縄教会

2015年2月20日金曜日

見参! 見参! 今だからの心技体

 雨のそぼ降る2月の日曜日東京北の丸公園公園武道館に出かけました。60の手習いで始めた「なぎなた」のご縁で日本古武道演武大会のチケットをいただきました。こうした運動は頭でなくて身体で覚えるものと私は勝手に思い込んでいますがその身体が思うように動かなくなって久しく私はなかなか「なぎなた」がよくわかりません。運動を真似するだけではどうもすぐ飽きてしまいそうです。続かなくなる前に「なぎなた」を含め古武道なるものを知るのもいいかなと思い出かけることにしました。                                                                                     
 出かけてよかった。これでしばらく面白く続けられそうです。「なぎなた」だけでなく合気道、日本刀
など全国さまざまな流派があることもわかりました。演武会ではいろいろな流派の戦う形を見ることができます。
 
 演武会をみるのは初めての私にはちょっとしたカルチャーショックでした。鎖国日本の文化を改めて実感しました。日本が銃社会に陥らなかったのは鎖国のおかげとしかいいようがありません。敵を前にして作法を展開するなど名より実がほしい現代人には考えられない文化と思いました。
 しかし「なぎなた」の振り方を習うようになって思うことはこの形・姿勢や構えがなかなか身体の芯の動きにかなっているということです。そして相手を見据えるという態度と心構えを自然に身につけさせてくれるものです。流儀・作法はいろいろですが攻守という関係で成り立つ点はどの派も同じでしょう。人生下り坂に差し掛かった逃げ腰の私には古武道「なぎなた」が腰を守る体幹を鍛える最後のチャンスに思えてきました。ともかく1年は続けてみようと思います。

 お婆ちゃん的にはすでに歩き走り出すようになった孫一にぜひ剣道をと思います。真っ赤な胴着を着せ赤胴鈴の助になってもらい暴れたらカワイイでしょう。 ローン・レンジャーもいいけど 
ローンレンジャーにはお作法はないものねえ。 攻撃・戦いは人間の本能かと思います。作法などない戦いが鎌首をもたげている現在 将来を担う子供達には戦いにも作法があることを知ってもらいたいです。攻守の作法を考えることで鎖国の日本は人間のもっている攻撃性の矛先を変えて昇華してきたのだと思います。






バイバイ 私の60代

 この「暮らしを紡ぐ 異・職・柔・遊ぶ」のブログを書き始めて10年272のコンテンツになりました。10年一仕事というわけで店じまいをすることにします。これもけじめかなとおもいます。 バイバイ60代!私にとっての節目の季節に二人の師匠がなくなりました。9月には、カトリック教会の森一...